報道記事
2024年 ◎令和6年
◆ 米国渡航 意義考える/笠間で咸臨丸サミット/乗組員子孫らパネル討論
茨城新聞 2024.11.6
〔要旨〕
幕末に米国に渡った軍艦咸臨丸に思いをはせる「咸臨丸サミット」が10月27日、笠間市の笠間稲荷神社で開かれた。歴史小説家の鳴海風さんの基調講演と、咸臨丸乗組員の子孫ら6人が一堂に会してパネル討論が行われた。咸臨丸の航海長で、明治期に鉄道の調査測量などで日本の近代化に貢献した旧笠間藩士・小野友五郎を郷土の偉人として顕彰する「小野友五郎を伝えてゆく会」の主催で、約250人が参集した。
鳴海さんは「幕末日本の再検証・咸臨丸アメリカ渡航の意義」と題して講演。「子孫が語る幕末日本・咸臨丸未来の船出」をテーマにしたパネル討論では、咸臨丸子孫の会会長の藤本増夫さん(水主・大熊実次郎の子孫)、高山みな子さん(勝海舟玄孫)、小林賢吾さん(浜口興右衛門のひ孫)、宗像信子さん(木村喜毅の玄孫)、小野孝太郎さん(小野友五郎の玄孫)、榎本隆一郎さん(榎本武揚の玄孫)が登壇して、それぞれ先祖と咸臨丸について語った。
最後に、鳴海さんが咸臨丸の偉業を踏まえた「未来への船出」の針路として、江戸時代や第2次大戦後の平和を鑑み「再びのグレート・ピースを築いていくことではないか」と締め括った。
〔掲載写真〕
鳴海風さんをコーディネーターとしてパネル討論する乗組員の子孫
◆ 咸臨丸偉業 大使館も賛辞 / 横須賀で顕彰式
朝日新聞(神奈川版) 2024.4.28
〔要旨〕
27日、横須賀市の浦賀ドック工場跡地で咸臨丸フェスティバル式典があった。1860年に日本の軍艦として初めて太平洋横断した咸臨丸を顕彰する恒例の式典だが、今年はポップサーカス横須賀公演の特設大テント内で開かれた。式典では上地市長の挨拶のほか、オランダ・アメリカの在日大使館関係者も咸臨丸の偉業をたたえた。
式典終了後は、同日から公演開始のポップサーカスが華麗な演技を披露し、約700人の出席者から喝采を浴びた。
〔掲載写真〕
ポップサーカスの特設テント内で行われた咸臨丸フェスティバル式典
◆ 「咸臨丸」子孫の会/交流続き創設30年/江戸幕府の木造軍艦
山陰中央新報 2024.3.14
〔要旨〕
江戸幕府の軍艦として1857年に完成した咸臨丸は、太平洋を横断して米国へ渡航するなどしたのち、輸送船となって 71年に沈没したとされる。その乗組員の子孫らでつくり、交流を続けてきた「咸臨丸子孫の会」が、今年、創設30年を迎える。子孫の会によると、会は1994年11月、勝海舟やジョン万次郎の子孫が集まって発足した。当初は十数人の会だったが、水夫の子孫探しなどにも取り組んで会員が増加した。これまで国内外のゆかりの地の訪問や、関係資料の発掘、総会の開催などの活動を続けてきた。
大阪市在住の藤本増夫3代会長(72)は、「新たな発見や歴史の見落としがまだ多くあると思われ、掘り起こしていきたい」と語る。
〔掲載図版〕
「咸臨丸の主な歴史」(世界地図に主な航海先を記す)
◆ 祖先の偉業や足跡 後世に/宗像信子さん/幕末に渡米「咸臨丸」軍艦奉行・
木村摂津守の子孫
木村摂津守の子孫
東京新聞(埼玉版) 2024.3.4
〔要旨〕
1860年に太平洋を往復した咸臨丸には福沢諭吉、勝海舟、ジョン万次郎ら新時代を創った俊英が乗っていた。船を率いた軍艦奉行の木村摂津守の玄孫(やしゃご)の宗像信子さん=さいたま市浦和区=は「子孫として、祖先にこんな人がいたと責任をもって伝えたい」と足跡を追い続けている。小学生のとき、教科書で航海の記述を読み、母親から祖先だと教わった。その後木村への親しみを胸に年齢を重ねたが、
2005年に「咸臨丸子孫の会」への入会を勧められ、訪米旅行にも参加して木村にゆかりの地を踏んだ。また都内で活動する「幕末史研究会」にも加わり歴史研究者らとも交流するようになった。資料や関係書を読み、家族から聞いたエピソードにとどまらない木村の姿を知ることになった。他の乗組員の出身地を訪ねたり、咸臨丸の縁を生かした活動の輪を広げる。「ドラマの題材となる西郷隆盛や坂本龍馬のような人たち以外にも多くの人が活躍したことを知ってほしい」という。
〔掲載写真〕
① 集めた資料を手に木村への思いを語る宗像さん
② 2月、咸臨丸子孫の会の総会で、子孫たちと活動する宗像さん
2023年 ◎令和5年
◆ 勝海舟 生誕200年の特別展 / 大田の記念館 身近な視線で生涯たどる
朝日新聞 2023.1.31
〔要旨〕
勝海舟(1823−99)の生誕200年を記念する特別展が、大田区立勝海舟記念館(大田区南千束)で始まった。来年3月まで4期にわたる長期展示で、家族の日記など身近な視点を通じて、その生涯をひもとく。勝は、晩年、洗足池(大田区)の景観が気に入って別荘「洗足軒」を構え、没後は遺志によりその近くに葬られた。記念館はそのゆかりの地に、2019年、大田区がオープンした。
1月6日に始まった特別展第1期は「出帆 麟太郎と四人の先達たち」と題して、誕生から幕臣として活躍を始める約30年間に焦点をあてる。父小吉の日記、剣術の師匠だった島田虎之助の極意書、海舟がオランダ語・天文航法・数学などを学んだ学習ノートなどが展示されている。
第1期の展示は4月16日まで。その後、幕末、明治、晩年をテーマに約3ヶ月ずつ開催される予定だ。
〔掲載写真〕
① 勝海舟肖像写真② 勝海舟が天文航法を学んだときの学習ノート
2022年 ◎令和4年
◆ ペリーの星条旗 170年越しの交流/浦賀来航前に寄ったゆかりの父島/提督と
島民の子孫が初対面
島民の子孫が初対面
朝日新聞 2022.12.27
〔要旨〕
11月7日、ペリー提督の5代目の子孫にあたるマシュー・ペリーさん(81)が、170年前、提督が浦賀来航の前に寄った小笠原諸島の父島(小笠原村)を初めて訪問した。同氏はメリーランド州在住の鳥類学者。出迎えたのは、父島最初の移住者、米国人ナサニュエル・セーボレーの5代目のセーボレー孝さん(65)。マシューさんは提督が父島に来た時に持っていた懐中時計を見せ、孝さんは提督が石炭貯蔵用地を購入したときの契約書の写しを見せて、その地を案内した。対面のきっかけは昨夏の朝日新聞記事だ。ペリーはナサニュエル氏を行政長官に任命し、星条旗を授けていたが、太平洋戦争中にセーボレー家が迫害を恐れて焼却していた。それを知った愛媛県西条市の男性が当時の星条旗を再現して孝さんに贈り、それを報じた英訳記事がマシューさんの目にとまった。
父島の後、二人は西条市を訪れ、旗の寄贈を呼びかけた近藤章さん(84)に会った。近藤さんは時計店主で、「提督は多くの人に置き時計を贈っていた」と文献を見せた。提督の懐中時計はもう錆びて動かないが、マシューさんは「長い時を超えた縁を感じる」と話した。
〔掲載写真〕
① 父島にて。ペリー提督5代目のマシュー・ペリーさん、セーボレー孝さん、ジョン万次郎5代目の中濱京さん、万次郎を助けたホイットフィールド船長の6代目スコットさん。
② ペリー提督が使っていた懐中時計のケース。
2021年 ◎令和3年
◆ 幕末の証言者 咸臨丸どこに/太平洋横断後、物資輸送船に・・・謎の沈没150年
東京新聞 2021.10.28夕刊
〔要旨〕
幕末に勝海舟や福沢諭吉を乗せて太平洋を横断した軍艦「咸臨丸」が、北海道木古内沖で沈没してから今秋で150年になる。沈没の経緯や具体的な場所は謎で、2018−19年には漁師の目撃情報をもとに、船が造られたオランダと共同で現場調査も行われたが、船体は発見されないままに終わった。1984年には咸臨丸の可能性のある鉄の錨がサラキ岬で発見され、2007年ごろ「海底に埋まっている木造の船体を見た」という証言もあった。16年にはオランダ文化庁から東京海洋大に共同調査の申し出があり、潜水や、海底地形を計測するマルチビームソナーで探索を行ったが、手がかりは見つからなかった。
東京海洋大の岩淵教授らは、東日本大震災で海底地形が変わったとの漁業関係者の指摘を受け、地震で木造の船体が海底から露出して流されたのではないかとみている。
コロナ禍などもあって今後の予定は立っていないが、岩淵教授は広範囲で調査すれば発見の可能性はあると考えており、木古内町の「サラキ岬に夢みる会」の舛野信夫会長(77)は「かけらでもいい、見つかってほしい」と切望し、「咸臨丸子孫の会」の藤本増夫会長(70)も「今後もぜひ調査してほしい」と語る。
〔掲載写真〕
① サラキ岬にある咸臨丸のモニュメントと舛野信夫会長=9月、北海道木古内町で② 2019年11月に木古内町沖で実施した目撃現場の調査の様子=岩淵聡文教授提供
③ 木古内町に展示されている鉄の錨。咸臨丸の錨の可能性がある。
2018年 ◎平成30年
◆ 咸臨丸の位置「絞り込めた」/調査チーム 探索継続
読売新聞 2018.12.19
〔要旨〕
東京海洋大とNPO法人「アジア水中考古学研究所」(福岡市)などの調査チームは、今年、北海道木古内町沖で沈没した「咸臨丸」の船体を探索する調査を行ない、都内で開いた研究報告会で「船体が沈んでいる可能性がある場所を絞り込めた」と報告した。今後、地元と協議のうえ来年も探索を続ける予定だ。咸臨丸は1860年に勝海舟らを乗せて太平洋を横断、戊辰戦争中は新政府軍に拿捕された。その後、北海道への移住者を輸送中に同町沖で沈没した。
今回の調査はオランダ文化庁、同町などと実施し、同町沖約500mメートル、水深10〜12メートルの緩斜面を目視やポールで調べ、沈没場所と推定される土砂堆積箇所を見つけた。同大の岩淵聡文教授(水中考古学)によれば「今回メドをつけた場所以外にはこの一帯に船体はないと確認できた」という。海草が枯れる来年初春にも水中音波探知機などで調べ、潜水で確かめたいとしている。
〔掲載写真〕
海草が繁茂する海底を調査するメンバー
◆ 「咸臨丸事件」から150年/次郎長の功績たたえる/歴史小説家ら講演
静岡新聞 2018.9.19
〔要旨〕
静岡市の清水港で1868年9月に起きた「咸臨丸事件」から今年で150年を迎え、「次郎長翁を知る会」では17日、事件で犠牲となった咸臨丸乗組員を埋葬・供養した清水次郎長の功績をたたえて、清水区で供養祭と記念講演会を開催した。咸臨丸事件では、清水港に停泊中の旧幕府軍艦・咸臨丸が新政府軍に襲撃され、約20人の乗組員が死亡したが、次郎長は海に放置された遺体を引き揚げ埋葬したという。
清水テルサで開かれた記念講演会では、歴史小説家・植松三十里さんと幕末・明治の政治家榎本武揚の子孫、榎本隆充さんが事件の概要や次郎長らの生涯などを解説。引き続き勝海舟の子孫の高山みな子さんを交えたトークセッションでは、次郎長の魅力を「誰からも好かれるリーダーで、清水の発展に貢献した」などと語った。
講演会に先立って、次郎長が犠牲者を弔うために建てた同区築地町の「壮士墓」で供養祭が開かれた。
〔掲載写真〕
咸臨丸事件と清水次郎長の功績などを語った記念講演=静岡市清水区の清水テルサ
◆ 咸臨丸事件150年 清水区で犠牲者供養 /「次郎長」継承へ記念事業
中日新聞 2018.9.18
〔要旨〕
静岡市清水区の清水港で1868年9月に起きた「咸臨丸事件」から18日で150年を迎えるのを前に、犠牲となった咸臨丸乗組員の供養とともに、新政府の命令に反して死者を埋葬した清水次郎長たたえる記念事業が17日、清水区で開催された。次郎長が犠牲者を弔ったとされる同区築地町の「壮士墓」で営まれた供養祭には約80人が参列し、僧侶による読経のなか焼香して冥福を祈った。
同区の清水テルサでは、歴史小説家・植松三十里さんや、次郎長と親交があったとされる榎本武揚の子孫、榎本隆充さんらによる記念講演も開かれた。
咸臨丸事件では、清水港に停泊中の旧幕府軍艦・咸臨丸が新政府軍に襲撃されて乗組員が死亡し、海に捨てられた遺体を次郎長が子分らと引き揚げ埋葬したという。次郎長が「死んでしまえば同じ仏。仏に敵も味方もない」と述べたという逸話が残る。
〔掲載写真〕
壮士墓の前で焼香し、犠牲者の冥福を祈る参列者=静岡市清水区で
◆ 「咸臨丸」探索で潜水調査 / サラキ岬 手掛かり発見できず
函館新聞 2018.9.13
〔要旨〕
明治初期にサラキ岬沖で沈んだ江戸幕府の軍艦「咸臨丸」のため、東京海洋大学(東京)やNPO法人アジア水中考古学研究所(福岡)などでつくる研究チームが、7〜9日の3日間、潜水調査を行った。今回の調査では船体につながる手掛かりは発見できず、冬にも再調査を行う計画だ。同チームによる現地調査は昨年11月に次いで2回目。今回はアジア水中考古学研の高橋正浩さん、吉田潜水(木古内町)の吉田修一社長ら3人が5回にわたって潜水調査した。
吉田社長は10年ほど前、サラキ岬沖の海底で15〜20メートルほどの木製沈没船を発見しており、今回その周辺で手掛かりを探した。
同海底は、その後の土砂の流入と堆積で様変わりしており、可能性の高い一角は海藻が群生し、ダイバーが入るのは危険として探索は断念。再調査は海藻が枯れる冬に持ち越しとなった。
東京海洋大、アジア水中考古学研のほか、木古内町、オランダ文化庁が費用を負担。調査団長の東京海洋大・岩淵聡文教授は「手掛かりがみつかれば、木古内町やオランダ文化庁を交えて活用を議論したい」と話した。
〔掲載写真〕
潜水調査に臨む調査チーム(8日)
◆ 「咸臨丸」船体発見に至らず / 東京海洋大チーム
北海道新聞 2018.9.11
〔要旨〕
木古内町のサラキ岬沖で明治4年に沈没したオランダ製の幕末軍艦「咸臨丸」の船体を探索するため、東京海洋大の岩淵聡文教授(水中考古学)らの研究チームが7〜9日、4回にわたり潜水調査を行った。今回は発見に至らず、再調査を目指すことになった。オランダは自国製の沈没船を調査しており、同国文化庁の委託を受けたレオン・デルクセンデル調査官も来日。NPO法人アジア水中考古学研究所(福岡)の専門ダイバー2人が、同町泉沢の沖合約500メートルの海底を調べた。
潜水箇所では約10年前、地元潜水士が咸臨丸と見られる木造船体を目撃していたが、現在では土砂が堆積して海藻が繁茂し、詳しい調査はできなかった。
岩淵教授は「可能性のある場所は絞れた。海藻が枯れる来年2月以降、ソナーなどを使った調査も検討したい」と語った。
〔掲載写真〕
咸臨丸事件の船体が沈んでいる可能性のある海底を調査する専門ダイバー(研究チーム提供)
◆ 咸臨丸が結ぶ縁 日本酒に/岡山で醸造 浦賀で販売
朝日新聞・朝刊(第2神奈川) 2018.8.8
〔要旨〕
太平洋横断でよく知られる咸臨丸だが、その操船の主役は瀬戸内・塩飽諸島の人たちだった。彼らに思いをはせてほしいと、岡山県倉敷市の酒造が醸した酒「咸臨出帆」が浦賀で販売されている。企画したのは浦賀に生まれ育った岡山理科大学名誉教授の若村国夫さん(72)。岡山で物理学を研究するかたわら、出身地の浦賀の歴史も調べるようになった。咸臨丸に塩飽水夫が乗り組んだことを知り、瀬戸内と浦賀の縁を感じた。浦賀では咸臨丸は誰でも知っているが、塩飽の人たちのことはあまり知られていない。瀬戸内の酒を浦賀で売り出し、歴史を知ってもらおうと思い立った。
倉敷市の熊谷酒店に依頼して純米吟醸酒に「咸臨出帆」のラベルを貼った。6月からこの酒を販売するのは、東浦賀で酒店・宮政商店を営む幼なじみの宮井宣行さん(71)。若村さんは、塩飽の人たちの頑張りと心意気が、日本の近代化や国際交流に果たした役割を思い出してもらえたら、と話している。
〔掲載写真〕
若村さんと宮井さん
◆ 「士官レキ」没後150年 丸亀・広島で式典/日英の絆に思いはせ/遺族、
島民の供養に感謝
島民の供養に感謝
四国新聞 2018.8.6
〔要旨〕
1868年12月、丸亀市の広島沖で急死し、広島に埋葬された英国海軍の航海訓練生レキ(フランク・トゥーベイ・レイク、19歳)の没後150年記念式典が、5日、丸亀市広島町の広島市民センターで行われた。近くの「英国士官レキ之墓」に子孫が献花し、新たに建てられた記念碑の除幕もあり、約100人が日英の絆に思いをはせた。広島住民らの「イギリス士官レキ研究会」などによれば、レキは広島沖に停泊していた灯台敷地調査船マニラ号内で病死、1872年に地元の庄屋・岡良伯が中心となって墓を建て、島民が供養を続けた。研究会は5年前、広島出身の妻をもつ英国人グラハム・トーマスさん(63)と出会い、情報交換をしながら調査をすすめた。その結果、これまで1866年にセルビア号で死亡したとされたていたのは誤りだと判明したという。
式典には英国在住のレキの子孫ブリジット・キャンベル・トルーマンさん(64)や、岡良伯の子孫、研一郎さん(70)らが出席。ブリジットさんは墓が今でも大切に守られていることに感銘を受けたと挨拶した。記念碑は同研究会とトーマス夫妻が地元の青木石などを使って設置。新たに判明した事実を含めてレキの生涯を記している。
〔掲載写真〕
「英国士官レキ之墓」の隣に立つブリジットさんと岡さん
◆ 廻船の航路たどり塩飽寄港/サザンクロス号日本一周へ
読売新聞(香川版) 2018.5.15
〔要旨〕
江戸時代に日本各地を結び、物流を支えた廻船の航路をたどって日本一周を目指しているヨット「サザンクロス号」(全長12m、幅4m)が14日、丸亀市沖の本島(塩飽諸島)の笠島港に入港した。大阪のヨットマンらの「あきない夢まち港 弁才船の航跡」実行委員会が、明治維新150年にちなんで当時の航路や交易の歴史を見直そうと企画したもの。江戸・大阪間で物資を運んだ菱垣廻船などのルーツが塩飽水軍の本拠地であった本島にあることから、13日大阪を出港した同号は最初に本島に寄港した。
ヨットは塩飽史談会のメンバーらに出迎えられ、塩飽勤番所跡を訪れるなど、住民たちと交流を深めた。
弁才船は菱垣廻船・樽廻船・北前船などの原型となり、「塩飽大工」がつくったとされる。塩飽水軍は海運業などで繁栄し、多くの船大工を輩出、その後、宮大工や家大工に転身して塩飽大工と呼ばれて各地で活躍した。
ヨットは今後、瀬戸内海を西進し、関門海峡から日本海に抜けて北前船の航路を北上、北海道を一周して函館から東廻り航路を東京へ向かう。その後菱垣廻船の航路をたどって9月に大阪に帰港の予定。
〔掲載写真〕
笠島港で花束を受け取る実行委員会のメンバー
◆ 空母信濃のカレー/乗組員の記憶頼りに再現
タウンニュース・横須賀版(電子版) 2018.4.27
〔要旨〕
終戦間際の1944年、横須賀海軍工廠で完成した航空母艦「信濃」の艦内で作られていた幻のカレーを地元飲食店 YOKOSUKA SHELL が再現した。当時のレシピなど現存していないため、乗組員だった岩瀬榮氏の記憶を頼りにした。「食糧難を反映してありあわせの野菜でつくられていた覚えがある。原型を残した肉はなく……」、しかし「隊員の士気をあげるごちそうだったことは間違いない」と岩瀬氏は振り返る。〔掲載写真〕
① 海軍で使用されていた皿で提供されるカレー② 再現に協力した岩瀬栄氏
(編者注=岩瀬氏は咸臨丸子孫の会会員、横須賀市在住)
◆ 万次郎の恩返しが問うもの/ジョン万次郎直系5代目 中濱京さん
(リレーおぴにおん・維新150年 第8回)
(リレーおぴにおん・維新150年 第8回)
朝日新聞 2018.4.24
〔要旨〕
177年前に始まった万次郎の冒険にまつわる、さまざまなものが我が家に伝わっています。咸臨丸で渡米したときに購入したウェブスター辞書、漂流から10年間の絵入りの見聞録、等々。でもそれ以上に大事な宝物は、鎖国の時代に万次郎を救った人々との家族ぐるみの交流が現在も続いていることです。万次郎は生前、「決してあきらめてはいけない」と繰り返し言っていたそうですが、14歳のとき、漂流しながも伊豆の無人島で143日も生き延びた経験に裏打ちされていたのでしょう。
万次郎を救出した捕鯨船のホイットフィールド船長は、彼をマサチューセッツ州の自宅で我が子のように育て、学校に通わせてくれました。万次郎は43歳のとき、ヨーロッパ視察の途次、マサチューセッツに立ち寄り、船長に再会しています。
万次郎に関する著作を残した私の父は「万次郎は、直接ホイットフィールド船長に十分に恩返しはできなかった。でも、弱い立場にあった自分にしてくれたことへの恩返しを間接的にしようと考えていた」とよく語っていました。万次郎は決して過去の人ではなく、私たちに、問いかけ、語りかけ、励ましてくれています。
〔掲載写真〕
中濱京さん
◆ 山岡鉄舟の功績解説/静岡で講演や朗読劇
静岡新聞(電子版) 2018.4.17
〔要旨〕
徳川時代の歴史的意義を研究・発信する徳川みらい学会は4月16日、2018年度の徳川家臣団大会と本年度第1回講演会(静岡商工会議所、静岡市共催)を静岡市葵区で開いた。幕臣の子孫など約500人が参集した。講演会では「明治維新150年と静岡」をテーマに、静岡とゆかりの深い山岡鉄舟に焦点を当てたプログラムを実施し、講演と朗読劇を通じ、江戸城無血開城に大きな役割を果たした鉄舟の人物像に迫った。
講演では鉄舟が創始した全生庵(東京都台東区)の平井正修住職が、鉄舟の年譜をひもとき、その人となりから幕末明治期にかけての活躍を説いた。
〔掲載写真〕
動きのある朗読で鉄舟の物語を語る奥野晃士さん
◆ 「造船の父」知って/東郷記念館に肥田浜五郎コーナー
伊豆新聞(伊東版) 2018.2.15
〔要旨〕
伊豆市渚町の伊東東郷記念館にこのほど「日本造船の父」とも称される肥田浜五郎(1830-89年)の紹介コーナーが開設された。伊豆自然歴史案内人会・東郷記念館部会(高橋尊顕部会長)によって設けられたもので、関連書籍や、同部会が行ったミニ講話の伊豆新聞掲載記事などが並んでいる。肥田浜五郎は1871(明治4)年、岩倉使節団に随行して才能を認められ、横須賀造船所の所長のほか、鉄道・銀行・宮内省など多岐にわたる分野で重要ポストを占めた。
肥田は横須賀造船所で伊豆天城の材木を使って軍艦「天城」を建造しており、東郷平八郎が「天城」に乗って出世したことなど、旧東郷別荘のこの記念館に浜五郎のコーナーを作る意義があった、と米村邦臣館長は強調した。
〔掲載写真〕
肥田浜五郎コーナーで関連書籍を見る高橋部会長と米村館長
2017年 ◎平成29年
◆ 浦賀奉行所 跡地寄付/住重から横須賀市に/市民グループ、復元期待
朝日新聞(神奈川)2017.11.29
〔要旨〕
幕末に江戸湾防備などを担った浦賀奉行所の跡地が、所有者の住友重機械工業(東京)から横須賀市に寄付されることになった。横須賀市長が28日に会見して明らかにした。「活用法は地元の意見を聞きながら検討したい」という。跡地は約6700平方メートル。約50年前に建設された社宅3棟が閉鎖後も残っていたが、今年6月に解体され、今は更地となっている。
浦賀奉行所は1720(亨保5)年に設置され、海防の最前線の拠点として幕府倒壊まで約150年間存続した。奉行所の廃止後、建物は取り壊されたが、敷地を囲む掘の石垣などが当時のまま残っている。地元の市民グループが昨年から奉行所の復元運動を開始している。
〔掲載写真〕
更地になった浦賀奉行所跡地=横須賀市西浦賀5丁目
◆ 軍艦「咸臨丸」どこに 本格調査/東京海洋大とオランダ文化庁/木古内沖 来年度は潜水も
北海道新聞 2017.11.21
〔要旨〕
1871年(明治4年)に北海道木古内町のサラキ岬沖で沈んだ咸臨丸の調査に、東京海洋大の岩淵聡文教授(56)=人類学、考古学=とオランダ文化庁の委託を受けた調査官レオン・デルクセンさん(30)が乗り出した。オランダは世界各地のオランダ製の沈没船のリスト化と調査を進めており、咸臨丸については岩淵教授と共同調査を行うことになった。2人は21日まで3日間、町内で聞き取りなどを行い、19日には木古内町郷土資料館「いかりん館」で「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」のメンバーら意見交換した。来年度以降、潜水による探索も行い、謎とされてきた沈没場所の解明につなげたいとの考えだ。
〔掲載写真〕
木古内町郷土資料館で町民と意見交換する岩淵教授とデルクセンさん
◆ 咸臨丸フェスティバル/偉業たたえ 歴史展示なども
毎日新聞(デジタル版 神奈川) 2017.4.30
〔要旨〕
1860年に浦賀を出港して太平洋横断を果たした咸臨丸の偉業をたたえるイベント「第19回咸臨丸フェスティバル(実行委員会主催)が、4月29日、横須賀市浦賀の浦賀ドックで開催され、約3万人が訪れた。フェスティバルはオランダ・米国・日本の政府代表や「咸臨丸子孫の会」などを招いた式典で開幕し、浦賀奉行所、咸臨丸、浦賀ドックなどの歴史展示コーナーが設けられたほか、フラダンスや中高生の吹奏楽の演奏なども披露された。
〔掲載写真〕
咸臨丸フェスティバルで繰り広げられた華やかなフラダンス
◆ 旧幕臣の功績解説 静岡で徳川みらい学会
静岡新聞(デジタル版)2017.4.17
〔要旨〕
4月16日午後、静岡市葵区で、徳川みらい学会による2017年度徳川家臣団大会・講演会が開催された(静岡商工会議所、静岡市、静岡新聞社・静岡放送共催)。国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授と東京都江戸東京博物館の落合則子学芸員が講演し、日本近代化の礎を築いた県内ゆかりの旧幕臣について解説した。樋口教授は「旧幕臣と明治日本」と題して、明治期に活躍した旧幕臣が日本の近代化を下支えしたと語った。落合学芸員は、幕臣の家に生まれた洋画家川村清雄の生涯を解説し、さまざまな作品を示しながら徳川宗家16代当主家達や勝海舟との交流のエピソードを紹介した。
徳川家幕臣の子孫や関係者を含む約400人が来場した。
〔掲載写真〕
旧幕臣の功績を解説する樋口雄彦教授◆ 土蔵が守った交易の記録/横浜と石巻、千石船の縁 公開中
朝日新聞(神奈川) 2017.3.13
〔要旨〕
「東日本大震災6年 被災地を歩く」と題した連載記事。石巻の本間英一さんの土蔵は津波に耐えて奇跡的に残った。土蔵は資金を募って再建され、資料館として公開されている。その2階にかろうじて残った江戸時代の廻船問屋・武山家の古文書には、本間さんの祖先の武山家の船が神奈川湊(横浜市)に米を運んだことを記録した書状もあった。横浜市歴史博物館の企画展「津々浦々 百千舟」(20日まで)で展示されている。
〔掲載写真〕
(1)資料館として整備した土蔵の前に立つ本間英一さん(2)震災直後の本間家の土蔵
(3)土蔵から200メートルの門脇小学校は火災で焼け焦げた。
2016年 ◎平成28年
◆ 海舟・龍馬「師弟像」/赤坂 邸宅跡に
読売新聞 2016.9.11
〔要旨〕
9月10日、東京港区赤坂の勝海舟邸宅跡地で、海舟と龍馬の銅像の除幕式が行われた。海舟は坐像、龍馬は立像で師の身を守る姿をしている。「勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会」が昨年から署名活動や募金活動を続けて実現にいたった。
〔掲載写真〕
除幕された勝海舟(左)と坂本龍馬の銅像 ◆ 全国家康公ネット発足/静岡、浜松、岡崎市と商議所連携/ゆかりの地 魅力発信
静岡新聞 2016.4.17
〔要旨〕
静岡市で4月16日、家康公ネットの設立総会が開かれた。2015年に展開された家康公顕彰400年記念事業の後継組織で、会長に徳川記念財団理事長の徳川恒孝氏、副会長に静岡・浜松・岡崎の3市の市長と商工会議所会頭が就任した。
同日、徳川みらい学会が「徳川家臣団大会2016」を開催し、幕臣の子孫や関係者など総勢450人が交流会やシンポジウムに参加した。シンポジウムのテーマは「平和の礎を築いた徳川のブレーンたち」で、基調講演をした山本博文・東京大学史料編纂所教授を進行役に4人のパネリストが意見を交わした。
〔掲載写真〕
(1)設立総会壇上の徳川恒孝氏(2)家臣団大会2016のシンポジウムのパネリストたち
◆ ふるさと再訪/備讃瀬戸の島々 5/廻船で栄えた塩飽
日経新聞 2016.4.2
〔要旨〕
備讃瀬戸の島々シリーズの第5回。大小28の島々からなる塩飽諸島の中心、本島を訪ねる。塩飽の人々は巧みな操船・造船技術で知られ、江戸時代には「人名(にんみょう)制」という自治制度があった。かつての政庁で、現在は歴史資料館となっている塩飽勤番所には、徳川家康朱印状(複製)などが展示されている。島は廻船で潤い、のち廻船業が衰えたあとは船方の多くが大工職に転業し、岡山、高松、大阪、神戸などで技を振るった。幕末の咸臨丸渡米に乗り組んだ水夫50人のうち35名が塩飽出身者で、本島港の脇には咸臨丸渡米150周年の顕彰碑が立つ。咸臨丸子孫の会会長の藤本増夫さんは「神戸の洋風家具の発祥にも塩飽大工がかかわった」と話した。
〔掲載写真〕
塩飽勤番所で資料を説明する勤番所顕彰保存会会長の吉田智彦さん◆ 3・11から未来へ/石巻の記憶 雑誌で残す/横浜の作家・大島さん 昨年創刊
朝日新聞(第2神奈川) 2016.2.23
〔要旨〕
横浜市金沢区の大島幹雄さん(62)が昨年末、故郷の宮城県石巻市をテーマにした雑誌『石巻学』を創刊した。津波被災のため失なわれてゆく過去を掘り下げて記録し、文化を見つめることが未来へつながるとの考えからだ。創刊号には、石巻市釜谷地区の祭りの写真、復活した鉄道の旅行記、インタビュー、魚市場の物語など多彩な記事が掲載されている。刊行は不定期で、まずは10号までが目標という。発売元は仙台市の荒蝦夷。
〔掲載写真〕
(1)震災前の獅子巡行(2)大島さん
(3)『石巻学』表紙など
◆ 浦賀奉行所 復元めざせ/開設300年へ 市民団体が署名活動
朝日新聞(神奈川) 2016.1.18
〔要旨〕
浦賀奉行所は江戸時代の1720年に設けられ、2020年で開設300周年を迎える。奉行所廃止後、建物は取り壊されたが、周囲の堀の石垣などが現存する。幕末に奉行所与力だった中島三郎助をたたえる活動をしている市民グループ「中島三郎助と遊ぶ会」では、横須賀市のシンボルとして、また観光振興の起爆剤としてよみがえらせたいと、復元をめざすことになった。奉行所の間取り図が残っており、復元は可能という。
〔掲載写真〕
(1)横須賀市西浦賀の奉行所跡地(2)横断幕を広げる「中島三郎助と遊ぶ会」メンバー
◆ 櫃石島 歴史編さん/島出身の坂出市職員浜本さん/10年かけ ももて祭りなど調査
四國新聞 2016.1.14
〔要旨〕
櫃石島出身で坂出市職員の浜本敏広さん(57)が、塩飽諸島の一つ櫃石島(同市)の歴史や民俗を冊子にまとめた。10年かけて聞き取りや調査を行い、ももて祭や石仏信仰など島の風土や、江戸末期に咸臨丸で渡米した塩飽水夫などを詳しく紹介している。
〔掲載写真〕
冊子を手にする浜本さん2015年 ◎平成27年
◆ 浦賀ドック 8棟取り壊し/建物老朽化 れんが積みドックは対象外
朝日新聞(神奈川) 2015.10.30
〔要旨〕
横須賀市浦賀で造船の拠点として一時代を築いた住友重機械工業の浦賀ドックの建物のうち、残存する16棟の半数の8棟が11月から取り壊されることが明らかになった。大がかりな解体は2003年の工場閉鎖後初めてで、地元では跡地の活用を求める声も多い。1899年建造で、歴史的価値が高いれんが積みのドライドックは今回の解体の対象外となっている。郷土史家は「時代の流れだが、寂しい」と語る。
〔掲載写真〕
旧浦賀ドックのれんが積みのドライドック ◆ 咸臨丸子孫の会講演会/於咸臨丸フェスティバル(2015.5.23)
レンガドックかわら版 8号 2015.10.1
〔要旨〕
咸臨丸子孫の会幹事の小林賢吾さんが、浦賀出身の先祖、濱口興右衛門について講演した。濱口興右衛門は浦賀奉行所の同心で、安政2(1855)年、浦賀奉行所が建造した鳳凰丸の乗組員となり、万延元(1860)年には、咸臨丸に教授方・運用方として乗船し、アメリカへ渡航した。その後、明治3(1870)年には横須賀製鉄所に勤務し、多くの艦船造船に携わった。
〔掲載写真〕
講演会光景 ◆ 手作り山車 マチに彩り/木古内 咸臨丸まつり開幕
北海道新聞 2015.8.16
〔要旨〕
北海道木古内町のサラキ岬沖で座礁、沈没した咸臨丸をテーマにした「第11回きこない咸臨丸まつり」が、15日木古内町内で始まった。木古内商工会などが主催し、町民約200人によるパレードが市街地を巡行した。北海道新幹線車両や咸臨丸など6基の山車が沿道の人々を楽しませた。
〔掲載写真〕
駅前通りを巡行する山車のパレード2014年 ◎平成26年
◆ 『咸臨丸の絆/軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉』
世界の帆船(ブックガイド欄) 2014.12
〔要旨〕
万延元年、咸臨丸で太平洋横断航海を果たした軍艦奉行木村摂津守と従者をつとめた福沢諭吉の人間的な交流を描き、艦上の人間模様も活写する。
〔掲載写真〕
『咸臨丸の絆』表紙 ◆ 木村摂津守と福沢諭吉 絆を描く/さいたま市の宗像さん出版/航海の実相に迫る
東京新聞(地域の情報・広域) 2014.9.24
〔要旨〕
咸臨丸子孫の会の会員である宗像善樹さんが『咸臨丸の絆 軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉』を出版した。木村と福沢は咸臨丸で太平洋をわたって以来、互いに「木村様」「先生」とよびあい終生深い関係を結んだ。その絆を描く。
〔掲載写真〕
書籍表紙、著者宗像さん ◆ <神戸海軍操練所>開設150周年/勝海舟らの偉業しのぶ
毎日新聞 デジタル版(神戸版) 2014.8.31
〔要旨〕
幕末の「神戸海軍操練所」の開設150周年を記念する行事が、30日、神戸市中央区新港町の跡地周辺で開催され、創設を提言した勝海舟の子孫、咸臨丸乗組員の子孫などゆかりの人々約40人が参加した。勝海舟が艦長となって太平洋を横断した咸臨丸にちなみ、咸臨丸乗組員の子孫らが、咸臨丸にみたてた帆船で神戸港を周遊したのち、跡地の石碑に献花した。 ◆ 「勝の先見性」思いはせ/神戸の礎 海軍操練所開設150年で式典
産経新聞 2014.8.31
〔要旨〕
勝海舟が進言し、日本海軍の礎を築くために設置された神戸海軍操練所が開設150年となり、神戸市中央区の操練所跡碑で30日、記念式典が開かれ、勝の玄孫、高山みな子さんら約40人が参加した。操練所は約1年で閉鎖されたが、坂本龍馬や陸奥宗光らも学んだ。主催した咸臨丸子孫の会の藤本増夫会長は、「神戸を国際的な港町として育てた勝の先見性を知ってほしい」と語った。
〔掲載写真〕
操練所跡碑に献花する参加者ら ◆ 船大工の子孫ら功績たたえ式典/神戸海軍操練所 開設から150年
神戸新聞 2014.8
〔要旨〕
勝海舟が進言し、坂本龍馬が学んだ神戸海軍操練所が今年150年を迎えた。わずか1年で閉鎖されたが、元所員の船大工らはそこに残って西洋の建築技術を吸収し、神戸居留地の施設などを建設した。咸臨丸子孫の会が30日、記念式典を開く。勝の玄孫や船大工の子孫ら約30名が参加する予定。
〔掲載写真〕
海軍操練所跡の碑の前に立つ咸臨丸子孫の会の藤本増夫会長 ◆ 復元菱垣廻船披露で能「高砂」奉納し祝う/大阪・港区の港住吉神社
産経新聞 2014.7.16
〔要旨〕
菱垣廻船を3分の1の縮尺で復元した「浪華丸ヒガキくん」が、7月12日、港住吉神社に搬入され、15日、宝生流能楽師の辰巳万次郎さん(54)らが能「高砂」を奉納した。大阪市立海洋博物館(昨年閉館)に展示されていた別の実物大の菱垣廻船の製作の際、モデルとして作られたもので、昨年「築港・天保山にぎわいまちづくり実行委員会」が、帆や船体脇の飾りなどと付け加えて菱垣廻船の姿に復元した。
〔掲載写真〕
「浪華丸ヒガキくん」の設置を記念し、夕暮れの中、演じられた能 ◆ 咸臨丸子孫の会『20年の歩み』発行/発足までの記録や思い出など記し
岳南新聞 2014.5.4
〔要旨〕
富士地域にも多くの関係者が残る咸臨丸子孫の会が記念誌を発行した。静岡県にも咸臨丸ゆかりの史跡は多く、2011年には会員が県内のゆかりの地を巡ったほか、2012年には富士宮人づくりの会主催で咸臨丸に関する講演会も開かれた。会員が思い出や先祖などについて記し、富士宮市在住で咸臨丸乗組員・斉藤留蔵のひ孫にあたる尾駒眞理さんも寄稿している。
〔掲載写真〕
発行された記念誌『咸臨丸子孫の会20年の歩み』 ◆ 150 年経っても忠臣ゆるがず/18代当主感激!/“徳川家臣団”が静岡に集結
産経新聞 デジタル版 2014.4.19
〔要旨〕
静岡市で4月16日、「平成の”徳川家臣団”大会 in 静岡」が開かれ、家臣の子孫や関係者など1200人が集合した。子孫らが作る5つの団体約130人も参加した。小和田哲男・静岡大学名誉教授が「徳川家臣団の固い絆」と題して講演。パネルディスカッションには勝海舟玄孫の高山みな子さん、榎本武揚曾孫の榎本隆允さんが参加して、日本の近代化の過程で元家臣たちが果たした役割などを語った。
〔掲載写真〕
(1)徳川家臣団子孫の会の代表に記念品を渡す徳川宗家18代当主、徳川恒孝さん(2)「グレート家康公『葵』武将隊」の演舞
(3)壇上の德川恒孝さん
(4)挨拶する咸臨丸子孫の会の藤本増夫会長