咸臨丸のあゆみ

咸臨丸のあゆみ

1857年◎安政4年 キンデルダイク Built in Kinderdijk, the Netherlands
咸臨丸(原名「ヤパン」Japan)は幕府の発注により、オランダ・キンデルダイクのフォップ・スミット造船所で建造されました。1856年11月進水、翌1857年、ロッテルダム近くのフェイノールトのオランダ蒸気船会社(NSM)でエンジンなどを搭載して完成しました。同年3月、フェイノールトからヘルフットスラウス軍港へ廻航され、火薬や食料を積載して、3月26日、日本へ向けて出航しました。
ヤパンは3本マスト、バーク型の木造スクリュー蒸気艦で、満載排水量620トン。日本から海外へ発注された最初の船です。
IHCオランダ社(当時)の造船所構内に残る咸臨丸建造時の船台の跡。
ロイヤルIHC社の造船所構内に残る咸臨丸建造時の船台の跡。2007年9月撮影。
1857年◎安政4年 長崎 Nagasaki
カッテンディーケ中佐以下オランダ海軍の手によって廻航されたヤパンは、1857年9月22日(陰暦8月5日)、長崎に到着。1855年(安政2年)に開設された長崎海軍伝習所で、スームビング(観光丸)などとともに練習艦として使用されました。翌年には5回にわたって九州近海を巡航する航海訓練が行われています。長崎伝習所は1859年5月(安政6年4月)に閉鎖され、江戸の軍艦操練所に引き継がれました。これにともない咸臨丸も江戸へ移されました。
「咸臨丸」と命名したことを長崎へ達した記録。
「咸臨丸」と命名したことを長崎へ達した記録。〔安政5年〕12月18日付。
長崎歴史文化博物館所蔵「風説袋 天−1/嘉永7年甲寅」より。
写真提供=片桐一男氏
1860年◎万延元年 太平洋横断 Crossing the Pacific
日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節が派遣され、その随伴艦として咸臨丸が選ばれました。使節が乗った米軍艦ポーハタンのほかに幕府軍艦が派遣されたのは、長崎海軍伝習所以来の操艦技術を遠洋で試すことが真の狙いでした。
軍艦奉行木村摂津守(提督)、軍艦操練所教授方頭取勝麟太郎(艦長)以下90余名が乗組んだ咸臨丸は、2月10日(陰暦1月19日)浦賀を出帆、冬の北太平洋の暴風雨に翻弄されながらも37日の航海でサンフランシスコに無事到着。太平洋横断を果たしました。しかしこの壮挙も、日本側の依頼によって同乗した米海軍のブルック大尉とその部下10名の航海術に負うところが大きかったのです。
航海で損傷した咸臨丸は、メーア・アイランド海軍造船所において無償で修理され、その間、一行はさまざまな体験をし、見聞を深めました。帰路はほぼ日本人乗組員だけで航海し、ハワイを経て6月23日(陰暦5月5日)浦賀に帰着しました。
咸臨丸難航図
咸臨丸難航図
鈴藤勇次郎原画
木村家所蔵、横浜開港資料館保管
1861-62年◎文久元〜2年 対馬・小笠原諸島 Tsushima and Ogasawara Islands
1861年(文久元年)、ロシア軍艦の対馬占領事件に際して、外国奉行小栗豊前守が咸臨丸で派遣されました。その翌年には、小笠原諸島の領有権の確保のため、外国奉行水野忠徳を団長とする調査団が咸臨丸で派遣されました。このときの艦長は航米時に活躍した小野友五郎でした。一行は父島・母島で詳しい探検・測量を行い、幕府はそれに基づき諸外国に日本の領有権を通告しています。
時化に苦しむ咸臨丸の船内『続通信全覧』
時化に苦しむ咸臨丸の船内『続通信全覧』
雑「小笠原島真景図 父島之部」より
外務省外交史料館所蔵
帆走時の咸臨丸 西村慶明作画 船の科学館所蔵
 帆走時の咸臨丸 西村慶明作画
船の科学館所蔵
1868年◎明治元年 江戸脱出 Enomoto Takeaki’s Squadron
1863-65年(文久3〜慶応元年)頃、咸臨丸は品川・横浜間の要人の輸送や伝習生の訓練に使用されていましたが、その後ボイラーをはずして帆装軍艦となり、慶応3年(1867年)には運送船となりました。
1868年(明治元年)、戊辰戦争が始まると、榎本武揚は8隻の艦船を率いて品川沖から脱走、蝦夷へ向いました。咸臨丸もその1隻でしたが、観音崎で座礁、その後離礁したものの房総沖で暴風にあって漂流するにいたり、清水港に避難しました。しかし官軍に知られ、攻撃をうけて多数の死傷者が出、船は拿捕されてしました。
清水港近くの咸臨丸戦没者の墓「壮士墓」
清水港近くの咸臨丸戦没者の墓「壮士墓」
2011年10月 正井良治撮影
1871年◎明治4年 木古内 Wrecked off Kikonai, Hokkaido
戊辰戦争後、咸臨丸は輸送船として開拓使の物資や官吏の輸送などにあたりました。1871年、北海道に移住する仙台藩白石の片倉家家臣団401名を乗せて、松島湾の寒風沢(さぶさわ)から出帆しました。しかし11月2日(陰暦9月20日)、函館から小樽へ向う途中、木古内(きこない)のサラキ岬で暗礁に乗り上げて座礁。全員無事救助されましたが、咸臨丸は沈没。終焉を迎えました。
咸臨丸最後の航海
咸臨丸最後の航海 木古内町観光協会提供
【主な参考文献】
『万延元年遣米使節史料集成』全7巻、日米修好通商百年記念行事運営会編、風間書房、1960-1961年
『万延元年遣米使節図録』田中一貞編、田中一貞、1920年
『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、巌松堂、1938年(文庫版:中公文庫、1993年)
『咸臨丸海を渡る』土居良三著、未来社、1992年
『咸臨丸太平洋を渡る 遣米使節140周年』横浜開港資料館、2000年
『咸臨丸』(船の科学館 資料ガイドブック7)船の科学館、2007年

太平洋横断時の乗組員

1860年(万延元年)、アメリカに派遣された咸臨丸には、軍艦操練所の教授方・教授方手伝いが乗組みました。通弁方には中濱万次郎が選ばれ、そのほか公用方や医師が乗組んでいます。水夫は瀬戸内海塩飽(しわく)諸島や長崎の出身者で、う3名がサンフランシスコで病死、埋葬されました。木村摂津守の従者として中津藩士福沢諭吉が随行しています。

木村摂津守喜毅 軍艦奉行
木村摂津守喜毅 軍艦奉行
(木村家所蔵、横浜開港資料館保管)
勝麟太郎(海舟)教授方頭取
勝麟太郎(海舟)教授方頭取
(カーン画、油彩、ジョージ・M・ブルック3世所蔵)
ジョン・M・ブルック大尉
ジョン・M・ブルック大尉
(木村家所蔵、横浜開港資料館保管)
中濱(ジョン)万次郎 通弁方
中濱(ジョン)万次郎 通弁方
(中濱博氏所蔵、横浜開港資料館提供)
左から勝麟太郎、赤松大三郎(測量方)、小野友五郎(測量方)
左から勝麟太郎、赤松大三郎(測量方)、小野友五郎(測量方)
(『万延元年遣米使節史料集成』第4巻、1961年刊より)
前列左から浜口興右衛門(運用方)、肥田浜五郎(蒸気方)、福沢諭吉。後列左から根津欽次郎(運用方)、小永井五八郎(公用方)、岡田井蔵(蒸気方)(天野貴彦氏所蔵)(『万延元年遣米使節図録』1920年刊より)
前列左から浜口興右衛門(運用方)、肥田浜五郎(蒸気方)、福沢諭吉。後列左から根津欽次郎(運用方)、小永井五八郎(公用方)、岡田井蔵(蒸気方)(天野貴彦氏所蔵)
山本金次郎 蒸気方
山本金次郎 蒸気方
(文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』1938年刊より)
小杉雅之進 蒸気方
小杉雅之進 蒸気方
(小杉伸一氏所蔵、横浜開港資料館保管)
長尾幸作 木村摂津守従者
長尾幸作 木村摂津守従者
(『万延元年遣米使節史料集成』第4巻、1961年刊より)
齊藤留蔵 木村摂津守従者
齊藤留蔵 木村摂津守従者
(『万延元年遣米使節史料集成』第4巻、1961年刊より)
鈴木長吉 大工役
鈴木長吉 大工役
(三澤晨子氏所蔵、横浜開港資料館保管)
向井仁助 塩飽水夫
(上秋次氏・向井時男氏所蔵、塩飽勤番所顕彰保存会保管)