大熊実次郎
1837(天保8)年11月20日生 塩飽本島甲生浦生まれ
   (咸臨丸に関係するまでの何の記録も残っていない。)
1860年 万延元年 幕府遣米使節随判艦咸臨丸  乗組員
鉄砲方水主小頭兼楫取賄方
文久3年まで水主小頭兼楫取賄方として、4年間咸臨丸に勤め対馬、小笠原、長崎等の航海に参加する。
1863年 神戸海軍操練所設立準備のため大阪へ(勝海舟の海軍塾手伝い)
1864年 神戸海軍操練所設立 神戸に移動
1865年4月
元治2年3月
神戸海軍操練所廃止
密命により神戸海軍操練所の施設の管理をする。
1867年 慶応3年 紀伊和歌山藩 ニホール号を購入時、試運転を勤める.良好な成績を収める。
1868年1月
慶応3年 12月
神戸開港にともない、操練所の施設を(網屋吉兵衛の船たで場 ドック)を使い、船の修理、整備を行う。 塩飽大工を呼び寄せ操業する。(真木徳助、溝渕和太郎、木本悦治郎など、神戸家具の起源になる船大工もいた。)明治になってからも神戸操練所で 帆船の操縦にあたった。
明治10年1月12日 内務省交付第7号二等運転手仮免状取得
第一号二等運転手免状取得   我国初の甲種船長
明治15年 兵庫県下兵庫川崎町三軒屋に船具の店、嶋ノ上町に工場航洋造船所大隈支店を営業する。住まいは、相生町にあった。明治15年『豪商 神兵湊の魁』(垣貫興佑出版 熊谷久栄堂出版)
1906年
(明治37年)
神戸市東尻池の航洋造船所大隈支店を、株式会社川崎造船所運河工場(現 川崎車輌工場)に引き渡し、本島に渡る。兄岩吉の子の金造と孫の文吉に晩年の世話をしてもらう。家は、甲生浦 東光寺前、大熊文吉の東隣にあった。
1918(大正7)年2月18日没 <享年82歳> 
 戒名=法光院義教良乗居士  本島町新在家に埋墓がある。
大熊実次郎 大熊岩吉  実次郎の兄
大熊金造  甥
大熊文吉  金造の長男
大熊金市  文吉の長男    藤本シズエ 文吉の四女 
藤本増夫  シズエの長男 

 明治4年頃からの生田川の付け替え等のより、港湾の大幅な移動があり、
それからの10年の歩みが知りたいと思っています。
実次郎が引退して本島での生活の中で、島のこどもたちに咸臨丸や船の話を多く語っていたそうです。私の調べた話は、10年前に亡くなった、東光寺の住職がこどもの頃の話でした。どのような話をしていたのか今は手がかりがありません。

藤本増夫