香川県史歴史年表より塩飽関係を抜粋しました。
天慶3年(庚子)
〔940年〕
8月18日 藤原純友ら南海の海賊,伊予国を奪ったのち,400余艘の船で讃岐国に襲来し,国府を焼く(師守記・純友追討記)
8月27日 朝廷.小野好古を追捕山陽・南海両道凶賊使に任命する(師守記)
9月_2日 讃岐国,海賊の将紀文度を捕らえ.京に送る(師守記)
天慶4年(辛丑)
〔941年〕
2月_9日 讃岐国,藤原恒利が海賊を伊予国で破ったことを報告する(日本紀略)
6月20日 伊予国警固使橘遠保,藤原純友を討つ(師守記)
康和3年(辛巳)
〔1101年〕
この年以前 那珂郡塩飽荘,関白藤原師実領となる(近衛家文書)
保元元年(丙子)
〔1156年〕
7月 藤原忠通,那珂郡塩飽荘などの家領を女房播磨局に安堵する(天理図書館所蔵文書)
応保元年(辛巳)
〔1161年〕
4月_3日 善通・曼荼羅寺の所司ら,寺領在家の国役停止,寺領三野郡志々島の返付を国司へ訴えるよう東寺へ求める(東寺百合文書)
文治元年(乙巳)
〔1185年〕
2月19日 源平両軍,屋島・志度において戦い,平氏軍,海上より逃れ那珂郡塩飽荘に拠る(玉葉・平家物語・吾妻鏡)
建久7年(丙辰)
〔1196年〕
9月10日 長命寺(現,丸亀市本島)蔵木造弥勒菩薩坐像,造られる
承元元年(丁卯)
〔1207年〕
3月26日 法然,那珂郡塩飽荘に到り,領主の館に寄宿する.ついで同郡小松荘に移り生福寺に住する(法然上人行状絵図拾遺古徳伝絵詞)
安貞元年(丁亥)
〔1227年〕
10月20日 朝廷,専修念仏の張本人成覚が那珂郡手島に滞在するとの噂により六波羅探題に調査を命じる(高祖遺文録所収文書)


1253 建長5(癸丑)10・21 近衛家,鵜足郡栗隈荘・那珂郡塩飽荘・備前国家浦荘・同国直
       島などの家領荘園の明細を書き上げる(近衛家文書)
1333 正慶2 元弘3(癸酉)5・21 塩飽聖遠・定頼ら得宗被官塩飽一族,鎌倉において幕
       府とともに滅亡する(太平記)
1348 貞和4 正平3(戊子)4・1 南朝方伊予の忽那義範,塩飽島の城を攻め落とす(忽
       那家文書)
1381 永徳1(辛酉)この年 正覚院(現.丸亀市本島)蔵鰐口、造られる.
1389 康応1 2・9 元中6 (己巳)3・7 守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を
       宇多津の守護所に迎える(鹿苑院殿厳島詣記)
       3・8 足利義満,大刀を宝蔵院に奉納する(紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記)
       3・22 足利義満,厳島参詣の帰途,多度津に上陸.宇多津に到り,細川頼之
1405 応永12(乙酉)この年 東光寺(現,丸亀市本島)蔵鰐口造られる.
1421 応永28(辛丑)この年 正覚院(現,丸亀市本島)蔵懸仏,造られる.
1428 正長1(戊申)2・− 持宝寺(現.丸亀市本島)蔵絹本著色両界曼荼羅,良海によっ
       て先師実海の菩提のため,正覚院尊師堂に施入される.
1445 文安2(乙丑)この年 1月より翌3年1月までの間に兵庫北関を通過した讃岐及び小
       豆島船籍船は,のベ240隻以上におよぶ(兵庫北関入船納帳)
1473 文明5(癸巳)12・8 細川政元,塩飽の者が摂津国兵庫津での関銭を納入するよう守
       護代安富元家に命じる.ついで12月10日,元家,又代官安富左衛門尉に施行す
       る(東大寺文書)
1478 文明10(戊戌)2・− 塩飽浦の雑掌道光源左衛門,摂津国兵庫津での過書(関料免除
       の特権)を細川方へ訴えるが,拒否される.ついで4月,守護代安富元家,塩
       飽へ過書停止を伝える(多門院日記)
1564 永禄7(甲子)この年 宣教師フロイス,アルメイダ並びに4人の同宿とともに,塩飽
       島に寄港する(耶蘇会士日本通信)
       7・4 三好長慶.没する(細川両家記)
1570 元亀1(庚午)6・15 伊予能島の村上武吉,塩飽衆に対し,大友義鎮配下本田鎮秀の
       堺津への無事通行を命じる(野間文書)
1571 元亀2(辛未)7・− 塩飽衆,阿波の岡田権左衛門に属し.伊予能島に兵粮を送るが
       沼田警固衆並びに来島・因島衆に襲われ船3艘・船方数10人討たれる(萩藩閥
       閲録所収文書)
1573 天正1(癸酉)8・− 宣教師カブラル,塩飽島に着き8日間滞在する.この間,宿の
       婦人がキリシタンとなる(耶蘇会士日本通信)
1577 天正5(丁丑)3・26織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書)
1578 天正6(戊寅)この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教
       する(耶蘇会士日本通信)
       11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10(壬午)4・− 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑
       氏旧蔵文書)
       6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1585年 天正13(乙酉)この年 フランシスコ・パシオ,上京の途中塩飽に寄る(イエズス会
日本年報)
1586年 天正14(丙戌)8・22 秀吉,仙石秀久の豊後出陣御用として塩飽に50乗りの船10艘
と,1艘につき水主5人を出すよう命じる(塩飽勤番所文書)
       12・12 仙石秀久並びに十河存保・香西縫殿助・香川民部らの讃岐の將および
       長宗我部信親らの四国勢,戸次川を隔てた竹中山に陣をしく(改撰仙石
       家譜)
       12・13 仙石秀久,戸次川で島津軍と戦って大敗し,十河存保ほか多くの讃岐
       武將戦死する(改撰仙石家譜)
       3・− ガスパル・コエリョ,塩飽に立ち寄る(イエズス会日本年報)
1589年 天正17(己丑)12・  豊臣秀吉,北条氏攻撃のため生駒親正に船手1500人を割り当
       てる(久留米文書)
1590年 天正18(庚寅)2・晦 豊臣秀吉,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める(塩飽
       島諸事覚)
       この年 豊臣秀吉の北条氏討伐に際し,塩飽船,兵糧米を大阪より小田原に運
       ぶ,小豆島からも船51艘水主400余人徴用される(塩飽島諸事覚・小豆島御用
       船加子旧記之写)
1591年 天正19(辛卯)9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年 文禄1(壬辰)3・− 生駒親正・一正父子,秀吉の命で5500人を率いて朝鮮半島へ

       出兵する(近世史料T 「讃羽綴遺録」)
       10・23 豊臣秀次,塩飽に大船建造を命じ船大工・船頭を徴用する(塩飽勤番
       所文書)
       この年 小豆島より船50余艘水主651人,塩飽より水主570余人朝鮮半島出兵の
       ため徴用される(小豆島御用船加子旧記之写・塩飽島諸事覚)
1593年 文禄2(癸巳)2・28 豊臣秀次,名護屋へ医師35人と奉行を八端帆継舟2艘で送る
       よう塩飽に命じる(塩飽勤番所文書)
       3・4 豊臣秀次,竹役(俣)和泉を名護屋へ派遣するため,荷物10荷と20人
       を継舟で送り届けるよう塩飽に命じる(塩飽勤番所文書)
       この年 生駒親正,讃岐米1万2875石を豊臣家の御蔵米として大坂へ廻送する
       (生駒家宝簡集)
1597年 慶長2(丁酉)2・21 生駒一正,朝鮮出兵で第7番に属し,2700人の兵を率い渡海
       し昌原に在陣する(近世史料T「讃羽綴遺録」)
       春  生駒親正,一正と計り,西讃岐支配のため亀山に城を築き,丸亀城と名
       付ける(生駒記)〔讃羽綴遺録では慶長7年の説をあげている〕
1600年 慶長5(庚子)9・28 徳川家康,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める(塩飽
勤番所文書)
1615年 元和1(乙卯)この年 大坂の役に際し,塩飽船,兵糧米を備中国より堺まで廻送す
る(塩飽島諸事覚)
1637年 寛永14(丁丑)この年 上使板倉重昌の命により塩飽船25艘,大坂から陣道具を積み
島原に届ける(塩飽島諸事覚)
1641年 寛永18(辛巳)10・16 塩飽年寄宮本助の丞,幕府御用が多く塩飽の船頭・水主とも
迷惑をしている旨を大坂川口奉行小浜民部に告げる(岡崎家文書)
1654年 承応3(甲午)2・13 幕府,塩飽に対し,4人の年寄りのうち1人年行司を置くこ
と,公儀御用および島中の諸事をつとめることなど11か条の「塩飽嶋中仕置之
事」を出す(塩飽島諸事覚)
この年 塩飽,長崎奉行の大坂から小倉への下向に際し,水主121人を差し出
す.以後宝永元年まで続く(塩飽島諸事覚)
5・18 塩飽漁民と丸亀藩領西平山浦・北平山浦・御供所浦漁民との漁場争論
が起こり,3か条を取決め和解する.また備前国領下津井の4か浦漁民との
       漁場争論が起こり,5か条を取決め和解する(塩飽島諸事覚)
1659年 万治2(己亥)この年 塩飽本島の年寄宮本伝太夫,瀬居島を開作し,畠高13石・水
主役20人に定まる(塩飽島諸事覚)
1665年 寛文5(乙巳)2.4 大坂船奉行を小豆島並びに塩飽島の代官に任命する(徳川実紀)
1667年 寛文7(丁亥)(2)・18 幕府,塩飽へ諸廻船の遭難に対する諸注意や対応策など
7か条の触れを出す(塩飽勤番所文書「御触書之写」)
1669年 寛文9(己酉)10・27 塩飽諸島の検地行われる.総石高1378石9斗2合5勺(塩飽
島諸事覚)
1671年 寛文11(辛亥)10・26 幕府,塩飽へにせ薬種の売買禁止を通達する(塩飽勤番所文
書「御触書之写」)
この年 河村瑞賢,東廻り航路を開く.
    この年 河村瑞賢,西廻り航路の幕府直雇廻船に塩飽船のほか備前・摂津の船
を使うことを幕府に建議する(奥羽海運記)
1672年 寛文12(壬子)この年 河村瑞賢,西廻り航路を開く.
    この年 塩飽船,幕府直雇船として毎年7万5000石の城米輸送を命じられる.
       出羽から江戸への輸送運賃は100石につき金16両2歩(近世史料T「廻
       船会合控帳」)
    この年 塩飽牛島で船入(湊)築造のため,船の積石数10石につき銀1匁2分
9厘の入目銀を出すよう申し合わせる(長徳院文書「船入諸事之帳」)
1673年 延宝1(癸丑)2・− 幕府の御城米船直雇方式の採用に伴い,塩飽に大坂・江戸間
の輸送の心得,難船時の積荷の処置などの覚が出される(塩飽勤番所文書「御
触書之写」

1675年 延宝3(乙卯)2・22 塩飽漁民と香西浦漁民,小瀬居島沖の鯛網漁場をめぐって争
う(久保家文書)
1678年 延宝6(戊午)10・3 塩飽漁民と香西浦漁民の小瀬居島沖をめぐる鯛網漁場争論は
一日交代で網を入れることで解決する(塩飽島諸事覚)
1679年 延宝7(己未)1・8 大坂代官松村吉左衛門,小豆島・塩飽の船に対し御城米輸送
を命じる(三宅家文書)
8・5 塩飽牛島の船持衆,船入(湊)繕いのため,積石数に応じて銀を出す
(近世史料T「船入諸事之帳」)
1684年 貞享1(甲子)9・15 幕府,塩飽船方衆の知行を安堵する(塩飽勤番所文書)
1687年 貞享4(丁卯)8・11 塩飽で転びキリシタンについて調査を実施する(塩飽勤番所
文書)
1689年 元禄2(己巳)この頃 塩飽では他国水主稼として下津井4か浦から水主101人を雇
う(荻野家文書)
1697年 元禄10(丁丑)5・12 塩飽惣船持組頭七郎兵衛・吉兵衛,御城米江戸回送につき,
運賃は江戸入札値段,輸送石高は7万5000石にする要望を代官に願い出る(塩
飽勤番所文書「作恐奉願訴訟」)
1700年 元禄13(庚辰)12・22 塩飽の上島と下島の網場出入,江之浦前・立石原の2か所へ
1日交代で網を入れることで解決をみる(塩飽勤番所文書「御触書之写」)
1702年 元禄15(壬午)12・15 大坂代官,塩飽年寄へ本田畑のたばこ作りはその面積の半分
だけ認める旨を達する(塩飽勤番所文書)
1703年 元禄16(癸未)この年 塩飽牛島の廻船数45艘(近世史料T「船入諸事之帳」)
1705年 宝永2(乙酉)この年から享保5年まで,塩飽は水主役入目銀として4貫600目ずつ
代官に上納する〔但し,承応3年からの長崎御用は免じられる〕(塩飽勤番所
文書「御用水主銀納之訳」)
1708年 宝永5(戊子)この頃塩飽の御城米船数101艘(岡崎家文書「塩飽島中諸色手鑑」)
1712年 正徳2(壬辰)この年 塩飽,御城米輸送の運賃訴訟をおこす(近世史料T「廻船会
合控帳」)
1713年 正徳3(癸巳)塩飽の家数2026戸・人数1万723人・船数472艘(岡崎家文書「塩飽島
       諸色手鑑」)
1714年 正徳4(甲午)1・12 塩飽小与島の利太夫・善太郎・善四郎の船3艘,岩見国の御
城米輸送を請負う(近世史料T「廻船会合控帳」)
1717年 享保2 (丁酉)7・9 塩飽の年寄,御城米廻送に関する注意を島中浦々の庄屋へ
伝える(塩飽勤番所文書「享保年中并元文二年御触書之写」)
1720年 享保5(庚子)12・3 代官間宮三郎右衛門,幕領の女木・男木・直島・塩飽・池
御料の庄屋・年寄に対し,家屋敷・田畑の譲渡についてはすぐに届けるように
命じる(塩飽勤番所文書「享保年中并元文2年御触書之写」)
    3・− この頃塩飽船,北国御城米輸送よりはずされる(近世史料T「廻船会
       合控帳」)
この頃 牛島の廻船数45艘(近世史料T「廻船会合控帳」)
1722年 亨保7(壬寅)この年 塩飽の水主百姓ら,3人の年寄の不正を大坂川口役所へ訴え
る(塩飽勤番所文書)
    この頃 直島の廻船数35艘,総積石数490石(三宅家文書)
1723年 亨保8(癸卯)7・5 幕府,御城米船の入札参加の請負業者が少なく,塩飽に請負
入札を依頼する(塩飽勤番所文書「亨保年中并元文2年御触書之写」)
1728年 亨保13 (戊申)この頃 牛島の廻船数23艘(近世史料T「廻船会合控帳」)
1732年 亨保17年(壬子)9・21 大曽の瀬と大槌島についての幕府の判決下る.大槌島中央
を境と定め,北半分を備前領,南半分を讃岐領とする.さらに大槌島より東の
大曽の瀬25丁の所を境とし,北面は日比・利生・渋川3か村の漁場,南面は香
西浦の漁場と定まる(久保家文書「大曽瀬并ニ大槌島論裁許之事」)
1741年 寛保1 (辛酉)10・2 金手の阻をめぐる漁場争論の裁許,幕府評定所から下され
る.瀬居島・小瀬居島・室木島の東端を結んだ直線を境界として,西面は塩飽
の漁場,東面は高松の漁場とする.鰆瀬は以前通り入会とする(塩飽勤番所文
書「寛保元年裁許状」)
1756年 宝暦6(丙子)8・− 塩飽で延享2年以降の借金手形所持の者は,年寄から押切改
       めを受けるよう命じられる.以後,金銀貸借手形に年寄の押切がない分は無効
       となる(塩飽勤番所文書 享保10年〜天明8年「御触書写」)
1765年 明和2(乙酉)この頃 塩飽廻船業の衰退著るしく,島内の男子多数が他国へ出稼ぎ
       に行く(塩飽島諸事覚)
1769年 明和6(己丑)1・13 塩飽泊浦で大工組合の規則違反の処分をめぐって大工と年寄
       が対立,島中の大工が徒党して笠島・櫃石島・与島の庄屋などの家宅を打ちこ
       わす(近世史料T「塩飽島大工騒動一件」)
1789年 寛政1(己酉)4・28 塩飽笠島の年番高島惣兵衛と大工高宮小右衛門,幕府巡見使
       田中角右衛門に水主百姓に対する諸経費の負担軽減・廃止の願書を提出する(
       塩飽勤番所文書「島中困窮ニ付申上候一件控」)
       8・21 高松藩御座船飛龍丸,修造される(歴世年譜)
       10・− 塩飽笠島の高島惣兵衛・高宮小右衛門,先の4月の願書を江戸の勘定
       奉行に越訴する(塩飽島諸事覚)
       この年 高見島甚之丞・牛島長十郎,廻船30艘新造のため幕府に1万5000両の
       借用を願い出る(宮崎家文書「乍恐以書付差上候覚」)
1792年 寛政4(壬子)5・3 塩飽笠島浦年番高島惣兵衛らによる寛政1年の越訴の裁決が
       幕府より出される.年寄4人が罷免され,島中勘定が軽減される(塩飽勤番所
       文書「塩飽島一件落着御仕置御下知写」)
       7・9 塩飽の各浦・各島から1人ずつ出て,交代で宮ノ浜八幡宮で勤番する
       ことが始まる(塩飽勤番所文書「御朱印勤番之覚」
       12・13 塩飽中の水主百姓ら,先の5月の裁許にもとづき新たに役所を建て,
       そこで年寄が執務をとること,年寄役を4人から2人にすること,年寄役を一
       代限りにすることなどを決定し,船手奉行に申し出る(塩飽勤番所文書「跡年
       寄役見立ニ付諸書付控」)
1793年 寛政5(癸丑)2・− 大坂船手奉行,塩飽の新年寄選出をめぐって対立している与
       島庄屋岡崎次郎左衛門らおよび笠島浦年番高島惣兵衛を大坂へ呼び,和解させ
       る(塩飽勤番所文書「跡年寄役見立ニ付諸書付控」)
       5・− 大坂船手奉行,笠島浦か泊浦に年寄役所を建てたいとの水主百姓らの
       要望を認める.また,「御朱印」を新設の年寄役所へ保管することも許可する
       (塩飽勤番所文書「跡年寄役見立ニ付諸書付控」)
1796年 寛政8(丙辰)8・− 大坂川口番所,塩飽へ宝暦6年11月に交付した塩飽廻船の鑑
       札を員数書も添えて提出するよう通達する(塩飽勤番所文書「御触書之写」)
1798年 寛政10年(戊午)1・− 塩飽本島福田浦の幸吉,勤番所の建設を落札する〔勤番所
       の建設開始〕(塩飽島諸事覚)
       6・− 塩飽勤番所完成し,朱印状を移す(塩飽島諸事覚)
1808年 文化5(戊辰)11・5 伊能忠敬一行,讃岐沿岸の測量を終え,引田から阿波国へ入
       る(戊辰治海日記)
1830年 天保1(庚寅)10・17 塩飽本島泊浦で,坂出の塩浜師の指導により塩田の築造が始
       まる(塩飽勤番所文書「塩浜拵勘定請払帳」)
1831年 天保2(辛卯)7・− 塩飽本島泊浦の塩田,本島21名の出資により完成する(泊浦
       人名共有文書)
1837年 天保8(丁酉)この年 塩飽与島の塩田,備前児島郡鎌田重郎右衛門の開発により完
       成面積6町4反(「瀬戸内海に於ける島嶼部塩田の研究」所収「万日記留帳)
1843年 天保14(癸卯)この頃 直島の沖船頭職堺屋平蔵,北国・日本海で活躍する(堺谷家
       文書)
1860年 万延1(庚申)1・13 塩飽笠島浦兵吉ほか50人余,咸臨丸乗組員として乗船.19日
       昼すぎ浦賀より出帆する(石川家文書「咸臨丸渡米日記」)
1868 (慶応4年・明治1年)〈慶応4年9月8日改元〉1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地と
       なり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる(丸亀県史)
       1・20 塩飽本島で18日から対立中の人名が小坂漁民を襲撃し,250戸破壊(
       百姓一揆総合年表)
       2・− 塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し海援隊と名づける.のち梅花隊と
       改称,明治3年7月解隊(丸亀県史)