幕府遣米使節随伴艦
咸臨丸乗組員名簿
@士官 | 17名 | C大工役 | 1名 | G長崎出身水主 | 31名 | 凡例 | 年齢 | 太平洋横断時のかぞえ年齢 |
A医師 | 4名 | D鍛冶役 | 1名 | H米海軍士官/水兵 | 11名 | ◎印 | 長崎海軍伝習所出身者 | |
B奉行従者 | 5名 | E塩飽出身水主 | 35名 | 合計 | 105名 | ▼印 | 幹事教授方頭取挨拶参照 |
※医師・奉行従者は、士官待遇/医師は、見習従者を含む
※解釈/見解の相違がありましたら、ご指摘ください。
番号 | 職 名 | 氏 名 | 年齢 | 識別 | 生年月日・没年月日など | |
出身 | ||||||
姓 | 名 | 太平洋横断後の消息などの追記 | ||||
3 | 鉄 砲 方 水 主 小 頭 兼 楫 取 賄 方 |
豊島 | 兵吉 | 不明 | ◎ | 平吉と書かれる場合がある。 |
本島笠島浦 | ||||||
【100328修正】幕府海軍で千秋丸・幡龍丸で水主小頭を務めた。 | ||||||
4 | 大熊 | 実次郎 | 24 | ▼ | 天保8年11月20日生(1837年頃)/ 1918(大正7)年2月18日没<享年82歳> 戒名=法光院義教良乗居士/ |
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本島甲生浦 | ||||||
【100328追記】神戸操練所開設に関わり、閉鎖後に紀州藩で帆走術を教えた。1868年1月1日の神戸港開時、英国領事館になった神戸操練所ドックの責任者を務める。その後、神戸で船具商と造船業(航洋船)を営む。明治17年、二等運転士仮免許を受ける。全国で7番目、その後我国初の甲種船長となる。 | ||||||
5 | 鉄 砲 方 水 主 |
森 | 勘次郎 | 21 | − | 天保11年8月18日生(1840年頃) 1902(明治35)年11月24日没 |
櫃石島 | ||||||
【050912追記】勘二郎、勘三郎と書かれる場合がある。 大阪商船就航100周年調査で山陽新聞より初代船長で 明治33年まで海上生活されたことが判明。 |
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6 | 高橋 | 金左衛門 | 不明 | − | 1869(明治2)年1月15日没/戒名=教乗彼岸信士 金右衛門と書かれる場合がある。 |
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牛島里浦 | ||||||
【100328追記】小笠原へ, 千秋丸の乗組員で参加。函館戦争で軍艦にて没 | ||||||
7 | 東 | 国蔵 | 不明 | ▼ | 1881(明治14)年9月1日没 国造と書かれる場合がある。 |
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広島江之浦 | ||||||
【100328追記】咸臨丸小笠原航海に参加。 維新後、琵琶湖で水夫をする。 琵琶湖初の蒸気船船長になる。 |
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8 | 横井 | 松太郎 | 18 | − | 天保14年2月28日生(1843年頃) 1901(明治34)年1月25日没 戒名=直至院真善道応居士 |
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本島泊浦 | ||||||
病気のためサンフランシスコに滞留。万延元年8月帰国。 | ||||||
9 | 平尾 | 宮三郎 | 18 | ▼ | − | |
本島宮之濱 | ||||||
【061010追記】太平洋横断時の年齢判明/子孫からの情報提供 【100328追記】塩飽水主の最年少者。咸臨丸小笠原航海に参加。 戊辰戦争で東都にて没。 |
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10 | 郡家 | 瀧蔵 | 21 | ◎▼ | 天保11年9月19日生(1840年頃)/ 1902(明治35)年9月1日没<享年63歳> 戒名=普証導専信士/滝造と書かれる場合がある。 |
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牛島 | ||||||
− | ||||||
11 | 松井 | 弥十郎 | 不明 | − | 1884(明治17)年12月19日没 弥重郎と書かれる場合がある。 |
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広島江之浦 | ||||||
【100328追記】桑港への、勝の買い出しに同行した話が残る。 咸臨丸小笠原航海に参加。 |
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12 | − | 和三郎 | 不明 | − | − | |
広島茂浦 | ||||||
13 | 島本 | 善四郎 | 23 | ◎▼ | 天保9年生(1838年頃) 万延元年7月25日<1860年9月10日>没 善次郎と書かれる場合がある。/ |
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瀬居島 | ||||||
【100328追記】帰国後、鵬翔丸の乗り組みとなる。 万延元年7月25日、伊豆下田大浦沖で座礁沈没で遭難死 |
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14 | 帆 仕 立 方 役 |
石川 | 政太郎 | 26 | − | 天保4年12月23日(1833年頃)生/ 1907(明治40)年11月13日熊本で没<享年75歳> |
本島泊浦 | ||||||
【100328追記】咸臨丸航海日誌を残す。榎本艦隊に参加し、 後に横須賀造船所の工長になる。 【130120追記】先祖の記録参照 |
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15 | 生田 | 治作 | 22 | ◎ | 1839(天保10)年8月23日生 1872(明治5)年1月12日没 |
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櫃石島 | ||||||
病気のためサンフランシスコに滞留。万延元年8月帰国。 | ||||||
16 | 水 主 小 頭 |
曽根 | 仁作 | 不明 | ◎ | 1868(明治元)年9月18日没 量平と書かれる場合がある。 |
広島立石浦 | ||||||
【100328追記】文久3年に水主同心格に取り立てられて武士になる。後に富士山丸の水主小頭として,功績を上げた。榎本艦隊に咸臨丸水主小頭で参加。房総半島沖で漂流し、下田経由で清水に寄港するが、清水にて官軍の銃撃を受けて死亡。 | ||||||
17 | − | 音吉 | 不明 | − | 乙吉と書かれる場合がある。 | |
櫃石島 | ||||||
− | ||||||
18 | 小栗 | 善三郎 | 52 | ▼ | 1880(明治13)年11月13日没<享年72歳> 林之介または林蔵と書かれる場合がある。 |
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本島笠島浦 | ||||||
【100328追記】咸臨丸乗組員最年長者。小笠原航海迄咸臨丸に乗っていたが、江戸の到着後に岩村吉之助を伴って函館丸で函館に向い、函館にて千石船に乗る。 | ||||||
19 | 玉谷 | 好平 | 40 | − | 1872(明治5)年没。<享年52歳> | |
高見島 | ||||||
病気のためサンフランシスコに滞留。万延元年8月帰国。 【100328追記】幕府軍艦の水主小頭で働く。 【130120追記】先祖の記録参照 |
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20 | 水主 | 石川 | 大助 | 不明 | − | 1877(明治10)年没 石川政太郎の弟 |
本島泊浦 | ||||||
【100328追記】咸臨丸小笠原航海に参加。 | ||||||
21 | 平田 | 源次郎 | 33 | − | 文政11年4月10日生(1828年頃) 1893(明治26)年1月27日没 |
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広島茂浦 | ||||||
【100328追記榎本艦隊に参加。函館戦争後、函館にて蒸気船の船長を務める。 1893(明治26)年1月27日没 |
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22 | 岡田 | 源之助 | 25 | ● | 安政7年3月3日/1860年3月23日病没<享年25歳> | |
広島青木浦 | ||||||
サンフランシスコにて病死。ローレルヒルの墓地に埋葬。 | ||||||
23 | 山下 | 伊三郎 | 不明 | ◎▼ | 1887(明治20)年閏4月3日没 | |
広島青木浦 | ||||||
【100401修正】咸臨丸小笠原航海に参加。維新迄,幕船に乗務した。 | ||||||
24 | 宮本 | 角之丞 | 31 | ◎ | 天保元年4月10日(1830年頃)生/ 1878(明治11)年4月8日東京品川にて没<享年49歳> 戒名=本阿角道信士/角太郎、角治と書かれる場合がある。 |
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瀬居島 | ||||||
【100328追記】咸臨丸小笠原航海に参加。大熊実次郎が没後の位牌を東京から本島の宮本英太郎に届ける。 | ||||||
25 | 岩村 | 吉之助 | 不明 | − | 吉之介と書かれる場合がある。 | |
本島新在家 | ||||||
【100328追記】咸臨丸小笠原航海に参加。後に函館で大倉近兵衛と名乗って、笠島小栗家の千石船に乗っていた模様。 | ||||||
26 | − | 幸吉 | 39 | ◎ | 万延元年7月25日<1860年9月10日>没 | |
広島稲田浦 | ||||||
【100328追記】帰国後、鵬翔丸の乗り組みとなる。万延元年7月25日、 伊豆下田大浦沖で座礁沈没で遭難死。苗字が「伴」と思われる。 |
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27 | 大倉 | 幸三郎 | 19 | ▼ | 天保11年8月5日(1840年)生 1874(明治7)年4月24日付で北海道開拓使御用掛 1910(明治43)年8月29日没<享年70歳> 戒名=隆岸浄興信士 |
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本島大浦 | ||||||
【100328追記】咸臨丸小笠原航海に参加, その後、不明 【110614追記】子孫から教えていただいた没年月日と享年を追記 【120820追記】開拓使御用掛は、北海道開拓使記録に基づく/子孫調査 【121128追記】先祖の記録参照 |
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28 | 向井 | 仁助 | 不明 | ▼ | 明治27年没 仁介と書かれる場合がある。 |
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広島市井浦 | ||||||
【100328追記】咸臨丸小笠原航海に参加。桑港での写真あり(塩飽勤番所に展示) | ||||||
29 | 松尾 | 延次郎 | 40 | − | 文政4年12月28日(1821年頃)生/ 1894(明治27)年2月29日没<享年74歳> 戒名=浄誉法山信士 |
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瀬居島 | ||||||
病気のためサンフランシスコに滞留。万延元年8月帰国 信次郎と書かれる場合がある。 【100328追記】明治になっても長く水夫として務める。 桑港での写真あり |
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30 | 田中 | 清右衛門 | 不明 | ▼ | − | |
高見島 | ||||||
【110621修正】二女が中西竹蔵妻となる。 | ||||||
31 | 高島 | 清蔵 | 45 | − | 文化13年4月27日(1816年頃)生/ 1896(明治29)年3月28日没<享年81歳> 戒名=高島院清荘正富居士/ 清造と書かれる場合がある。 |
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本島笠島浦 | ||||||
墓碑は笠島薬師堂の前にある。 【100328追記】咸臨丸のスケッチが載った新聞を持帰ったが、その後の調査の過程で紛失された。咸臨丸小笠原航海に参加。 |
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32 | 中西 | 竹蔵 | 不明 | ▼ | − | |
高見島 | ||||||
【110621修正】子孫入会により、中西竹蔵妻が、田中清右衛門二女と判明。 | ||||||
33 | − | 友吉 | 不明 | − | − | |
広島茂浦 | ||||||
34 | 平田 | 富蔵 | 不明 | ● ▼ | 安政7年3月10日/ 1860年3月30日サンフランシスコにて病死 |
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佐柳島 | ||||||
ローレルヒルの墓地に埋葬。富造と書かれる場合がある。 | ||||||
35 | 森 | 寅吉 | 不明 | ▼ | 万延元年7月25日<1860年9月10日>没 虎吉と書かれる場合がある。 |
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広島茂浦 | ||||||
【100328追記】帰国後、鵬翔丸の乗り組みとなる。 万延元年7月25日、伊豆下田大浦沖で座礁沈没で遭難死 |
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36 | 前田 | 常三郎 | 26 | ◎ | 天保6年(1835年頃)生れ 1891(明治24)年1月27日没 |
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佐柳島 | ||||||
【100328追記】咸臨丸小笠原航海に参加後、神戸操練所で働く。閉鎖時に坂本龍馬に従って行動する。亀山社中、海援隊で佐蜊n氓名乗る。 | ||||||
37 | − | 吉松 | 46 | ▼ | − | |
高見島 | ||||||
病人8名と共にサンフランシスコに滞留。万延元年8月帰国。 【100329追記】帰国後、水主小頭に昇格。 |
番号 | 職 名 | 氏 名 | 年齢 | 識別 | 備考 | |
姓 | 名 | 出身 | ||||
38 | 長崎水主 | − | 長次郎 | 不明 | − | − |
戸町 | ||||||
39 | − | 大次郎 | 不明 | − | 太次郎と書かれる場合がある。 | |
小瀬戸 | ||||||
40 | − | 栄吉 | 23 | − | 病気のためサンフランシスコに滞留。 万延元年8月帰国。 |
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西泊 | ||||||
41 | − | 福次郎 | 不明 | ◎ | 福太郎と書かれる場合がある。 | |
野茂 | ||||||
42 | 中村 | 伊助 | 不明 | ◎ | − | |
飽之浦 | ||||||
43 | − | 嘉右衛門 | 不明 | − | − | |
樺島町 | ||||||
44 | − | 久平 | 不明 | − | 九平と書かれる場合がある。 | |
小瀬戸 | ||||||
45 | − | 久太夫 | 21 | − | 病気のためサンフランシスコに滞留。 万延元年8月帰国。久太郎と書かれる場合がある。 |
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瀬戸脇 | ||||||
46 | − | 百太郎 | 不明 | − | − | |
西泊 | ||||||
47 | 松本 | 信吉 | 不明 | ◎ | 新吉と書かれる場合がある。 | |
水之浦 | ||||||
48 | − | 庄大夫 | 不明 | − | 庄太郎と書かれる場合がある。 | |
西泊 | ||||||
49 | − | 惣八 | 35 | − | 病人8名と共にサンフランシスコに滞留。 万延元年8月帰国。宗八、源八と書かれる場合がある。 |
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飽之浦 | ||||||
50 | − | 助次郎 | 不明 | − | − | |
大浦 | ||||||
51 | 河野 | 辰蔵 | 21 | − | 1840(天保11)年生/1893(明治26)年2月22日没 勝蔵、勝造と書かれる場合がある。 |
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西泊 | ||||||
52 | − | 梅吉 | 不明 | − | − | |
小瀬戸 | ||||||
53 | 火焚役小頭 | 内田 | 嘉八 | 不明 | ◎ | − |
54 | − | 小三郎 | 不明 | ◎ | − | |
55 | − | 九平 | 不明 | ◎ | 久平と書かれる場合がある。 | |
56 | 火焚 | − | 弁之助 | 39 | − | 1822(文政5)年生、1865(慶応4)年没 |
57 | − | 伊三郎 | 不明 | − | − | |
58 | − | 国太郎 | 不明 | − | − | |
59 | − | 又次郎 | 不明 | − | − | |
60 | − | 峰吉 | 不明 | ◎● | 安政7年閏4月1日/1860年5月20日サンフランシスコにて病死。 ローレルヒルの墓地に埋葬。峯吉と書かれる場合がある。 |
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61 | − | 紋次郎 | 不明 | − | 紋太郎と書かれる場合がある。− | |
62 | − | 竹治郎 | 不明 | − | 竹次郎、吉之助と書かれる場合がある。 | |
63 | − | 滝蔵 | 21 | − | 病気のためサンフランシスコに滞留。 万延元年8月帰国。瀧吉と書かれる場合がある。 |
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64 | − | 藤助 | 不明 | − | 藤介と書かれる場合がある。− | |
65 | − | 弥蔵 | 不明 | − | − | |
66 | − | 善蔵 | 不明 | − | − | |
67 | − | 吉之介 | 不明 | − | − | |
68 | − | 三四郎 | 不明 | − | − |
番号 | 職名 | 氏名 |
1 | 海軍大尉、指揮官 | John M. Brooke/ジョン・M・ブルック ▼ |
2 | 事務長 | Charles Rogier/チャールス・ロジャー |
3 | 砲手 | Charles Falk/チャールス・フォルク |
4 | 外科医 | Lucian P. Kendall/ルシアン・P・ケンダル |
5 | 舵手 | Alexander Morrison/アレクサンダー・モリソン |
6 | 掌帆手 | Charles Smith/チャールス・スミス |
7 | 帆縫工 | Frank Cole/フランク・コール |
8 | 水兵 | George Smith/ジョージ・スミス |
9 | Axel Smedborg/アクセル・スメドボルグ | |
10 | コック | James Burke/ジェームス・パーク |
11 | 海図専門家 | Edward M. Kern/エドワード・M・カーン/士官待遇 |
以上