江差町・木古内町訪問紀行2005報告
頭取 佐々木 寛
 咸臨丸終焉の地である北海道木古内町で「きこない咸臨丸まつり2005」が2005年8月15、16の両日開かれるのを機会に、咸臨丸子孫の会の一行は姉妹艦開陽丸の復元艦のある江差町を14、15の両日訪問した。
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〔8月14日〕
【鉄道の旅】
 今回は旧盆に開催される「きこない咸臨丸まつり2005」にあわせた日程のため、空路だと往復6万円となり鉄路を選択。東京〜八戸間は東北新幹線、八戸〜木古内〜江差と列車を乗り継ぎ、朝9時前から午後4時過ぎまで7時間強の1日がかりの汽車の旅。八戸駅でバチ弁当(1,100円)で腹ごしらえ。江差駅には開陽丸友の会の石橋藤雄会長、輪島絹子副会長夫妻、笹原之置さんらが出迎え、車3台でホテルへ運んでくれた。
【ようこそ江差へ交流親睦会】
 18時からホテルニューえさしで「ようこそ江差へ 咸臨丸子孫の会の皆様と開陽丸友の会との交流親睦会」が開かれ、友の会から濱谷一治江差町長はじめ石橋会長、山田政之、輪島両副会長ら8人、子孫の会から次の10人が出席した(順不同・敬称略)。

宗像善樹・信子夫妻(木村摂津守の子孫)、
佐々木寛、小林賢吾(濱口興右衛門の子孫)、
小杉伸一(小杉雅之進の子孫)、
榎本隆充(榎本武揚の子孫)、
岩本美和子(立石斧次郎ことトミーの子孫)、
松本善之、あさくらゆう、小川一男(特別会員)

 咸臨丸はオランダで1857年、開陽丸は1867年建造され、咸臨丸は姉だが、逆に開陽丸友の会は平成2年設立で、平成6年設立の咸臨丸子孫の会より年上だ。佐々木、小杉両人は江差訪問は2002年10月以来7回目だが、初めての人も多い。親睦会では、小川氏が15年前に咸臨丸の設計図をオランダから取り寄せた経緯を説明、石橋会長との再会を喜ぶなど、懇親の輪が広がった。

 二次会の「末広」では、江差追分の元チャンピオンの女性・香澄(Kazumi)さんが正調『江差追分』を歌ってくれる幸運に恵まれた。
〔8月15日〕
【開陽丸、嘆きの松などを見学】
 町役場に赴き、濱谷町長表敬訪問から15日のスケジュールが始まった。石橋会長も同席され、女川の出島(いずしま)に開陽丸寄港の秘話を披露すると、石橋会長は「初耳だ」と言われ、後日その話の資料を送った。その後、開陽丸青少年センターを訪問、飯田富洋館長と懇談した後、開陽丸を見学、甲板で記念撮影。昨年秋の台風で開陽丸は大きな被害を受け、今年4月に床を張り替えるなど大修理をして再オープンした。

 ニシンそばで昼食をとった後、郡役所(江差奉行所)跡やその前庭にある「嘆きの松」を見学した。説明板によると、明治元年11月16日、土方歳三が榎本武揚とともにここを訪れ、開陽丸が沈んだことを「釜さん(榎本のこと)、悔しいのう」とこの松をなでながら嘆いたという。このほか、ニシン御殿の中村屋や横山家を見学するものも多かった。14時半、3台の車で江差発、木古内に向かい、4時ごろ木古内町役場に着く。
【きこない咸臨丸まつり2005前夜祭】
 江差からの11人は3台の車に分乗して、木古内町役場に直行、大森町長と竹田議長を表敬訪問。シンガーソングライターの千鶴伽さんや土井美貴さんも合流して、賑やかになる。北海道在住会員も加わり、咸臨丸子孫の会としての参加者が17名に膨れ上がった。「きこない咸臨丸まつり2005」は初めてのイベントで、主催は木古内町、共催は木古内商工会・木古内町観光協会、主管はきこない咸臨丸まつり2005実行委員会。

 15日は前夜祭のようで、どっこい夜市、響け!太鼓の夕べ、よさこいフェスタのあと、千鶴伽ライブコンサートでは『咸臨丸をたたえる歌』が横須賀以外で初めて披露された。この歌は昭和35年7月14日横須賀市で作られ、作詞者関口恒、作曲者鯨井孝両氏とも市教委の指導主事。千鶴伽さんによると「この歌は軍歌と唱歌を足して2で割ったようなむずかしい歌」というが、独特の美声で聴衆に感銘を与えた。輪島絹子副会長の熱意で、佐々木頭取が横須賀市の協力を得て楽譜とテープを入手し、千鶴伽さんに送り、歌ってもらった。

 清本寿司で実行委員会との交流懇親会。函館博物館の佐藤学芸員もここで合流する。ホテル吉沢泊まり。
〔8月16日〕
【サラキ岬沖に出て海上献花】
 10時、泉沢港から2隻の漁船(恵比寿丸、隆栄丸)に分乗して咸臨丸が沈んでいるサラキ岬沖を海上から視察する。「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」竹田則幸副会長のお世話で実現したもので、サラキ岬を海上から見るという想定外の出来事に胸躍る思いだった。134年前の1871年(明治4年)にこの潮流の速い岩礁の多い海で咸臨丸は最期を遂げたのだと実感でき、感慨深いものがあった。町の人が用意してくれた花束を「咸臨丸よ!安らかにお眠りください」と念じながら、海に投じた。咸臨丸をこんなにも思い、愛してくれている人たちがいるのだと感激の一瞬だった。

 「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」がわれわれ「咸臨丸子孫の会」に示してくれた温かい友情のしるしとして感謝申し上げる。

 このとき咸臨丸の魂が喜んだのか、本当に地も海も揺れた。仙台・石巻中心のあの大地震が11時半ごろ起こったのだ。われわれが港に上がった11時45分ごろ、車を運転中の竹田副会長の携帯電話に「地震だ」との一報が入った。この地震は後述するが、帰路にも大影響を及ぼすことになる。

 民家の庭にしつらえてくれたバーベキューで昼食をいただいてから、咸臨丸のものともいわれる大きな錨を視察。この後、パークゴルフを楽しむ。北海道独特のもので、町営のゴルフ場だという。
【まつり本番】
 これからが「きこない咸臨丸まつり2005」の本番だ。18時からの咸臨丸パレードに備え、私は濱口興右衛門のいでたちをさせてもらった。ちょんまげ付きのかつらをかぶり、羽織・袴・足袋・雪駄を身に着けてお侍さんの扮装が出来上がった。袴を履くにはお腹をぎゅっと締め付けられ、水も食事もとれないほどで、こんなきついものとは思わなかった。これも一つの良い経験をさせてもらった。

 パレードはJR木古内駅前をスタート、マーチングバンドを先頭に咸臨丸の山車が続く。山車には大森伊佐緒町長が軍艦奉行の木村摂津守、竹田実議長が勝海舟、小浅悌司教育長がブルック大尉に扮し、本物の濱口興右衛門の子孫・私も末席を汚す。1時間半の間、水一滴も飲めず、かなりきつい荒行苦行だった。でも町民の大歓迎を受け、得がたい経験をした。

この後には咸臨丸子孫の会会員が徒歩で続く。咸臨丸誕生の地・オランダの花山車、それに千人踊りや夜間みこしが練り歩く。その数300人以上の華麗で勇壮なパレード。

 町役場前の駐車場に特設されたステージで7時半から咸臨丸セレモニー。ここで前日に続き、千鶴伽さんが『咸臨丸をたたえる歌』を再びアカペラで独唱。

 町長あいさつの後、サラキ岬にチューリップの球根を贈り続けたオランダ北海道人会の元会長松本善之さんは「木古内は永遠に不滅です」とあいさつ。

 咸臨丸子孫の会の14人が壇上で紹介され、私は「町の人のお計らいできょう図らずも海上からサラキ岬を見せてもらい感激した。木古内にとって初めての咸臨丸まつりだが、先輩格の横須賀市の咸臨丸祭りより盛大だと思う。子孫の会会員が招かれて参加し、まつりを盛り上げることに貢献できたなら、これ以上の幸せはない。来年も必ず来ます」と謝辞を述べた。夜9時過ぎから町内のスナックで打ち上げとなったが、自分の菜園で作ったメロンを皆に振る舞ってくださった中森さん、パレードの衣装を一人で縫ってくれたこの店のママのお姉さま、プロののどを聴かせてくれた千鶴伽さん、アテンドしてくれた実行委員会の皆様に感謝し懇談しながら、夜は更けていく。ホテル吉沢に連泊。
〔8月17日〕
【弔問】
 前日までのお祭り気分とは、打って変わり、咸臨丸とサラキ岬に夢みる会初代会長だった故中山信夫氏宅を全員で弔問した。まつりの舵取りに活躍した多田氏が本業のケサ姿に戻り、仏前でお経をあげていただいた。お盆で帰宅中の中山さんは、ついに実現した「きこない咸臨丸まつり2005」を見て、素晴らしいお土産を持ってあの世へ帰られたと思う。中山宅のお隣は、メロンの中森宅だった。
【復路】
 弔問後、駅前の喫茶店で時間調整しているところへ、大森町長、竹田議長など町の要職の方々から見送りを受けた。ホームまで来られ、我々の特急列車が見えなくなるまで見送っていただいたのが、大変嬉しかった。帰心矢の如しで、木古内駅から八戸まで予定どおりに行ったまではよかったが、地震の余波で乗り継ぐ新幹線「はやて」が運休となり、ホーム停車中の列車に強引に乗って空いている席に交代で座るなどして列車密度が高くなる仙台まで我慢して行った。仙台で始発の自由席に乗り換えて安堵できたものの、昼食にありつけない。5時になりやっと売店がオープンし、弁当を買う。19時になってもまだ大宮。東京駅経由だとラッシュアワーにぶつかるのを懸念して、大宮で湘南新宿ラインに乗り換え、23時半ごろ帰宅。往路より2倍の14時間もかかった復路は、地震の影響とはいえ長い旅だった。お疲れ様。