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★濱口興右衛門の妹の子孫と対面★
新発見と大収穫の仙台・石巻訪問紀行
2004(平成16)年7月1〜3日
 咸臨丸子孫の会の小杉伸一幹事教授方と姉の角井桂子と三人連れ立って、仙台・石巻を訪問した。今回の目的は、幕末軍艦咸臨丸に教授方運用方として乗り組み渡米した曽祖父「濱口興右衛門」の妹「ふく」の子孫が石巻にいることがわかり、その子孫たちに会うことと、「濱口興右衛門」がアメリカから土産に持ち帰った柱時計を見に行くことだった。事前の天気予報では、3日とも曇りのち雨だったが、現地に行ってみると、快晴の連続、夜も満月で、お天道様もわれわれを歓迎しているようだった。
【7月1日】
 仙台駅18時半過ぎ到着、小杉さんの会社の同僚・Kさんの案内で、仙台での夕食と夜を楽しみ、ホテルJALシティ仙台泊まり。
【7月2日】
 9:00仙台発JR快速で10:10石巻に着くと、「石巻千石船の会」事務局の本間英一さんが出迎えてくれた。本間さんは「濱口興右衛門」の妹「ふく」の子孫が石巻にいることを発見され、咸臨丸子孫の会ホームページを通じて私が「濱口興右衛門」の曾孫であることをメールで確かめ、今回の旅のきっかけをつくってくれた方である。「浜口興右衛門」没後110年たって、初めて石巻に「またはとこ」がいることがわかり、まったくIT革命のおかげと感謝している。本間さんの車に乗せていただき、10分ほどで門脇(かどのわき)の橋本家に到着。

 橋本家では、「濱口興右衛門」の妹「ふく」の孫「橋本晶(あきら)」の庸子夫人(大正14年生まれ)、晶の弟・彦二(大正8年生まれ)・文子夫妻(昭和3年生まれ)と石巻日日新聞のH女性記者が待っていた。

 通された2階の部屋は、郷土史家として知られる晶さんの書斎だったらしく、美術、音楽、郷土史などの書籍が本棚にぎっしり詰まっていた。晶氏は1916(大正5)年生まれで、旧制石巻中(現石巻高校)卒、石巻公民館長、市社会教育課長、図書館長を務め、退職後は市文化財保護委員、市史編集委員を歴任。石巻生まれの志賀直哉の生家を突き止め、作家阿川弘之に晶氏の業績を「橋本学」と言わしめた。1991(平成3)年、75歳で没。生きておられるうちにお会いしたかった。写真を見ると、濱口の妹の曾孫で、私とまたはとこにあたるだけに、やはり「浜口興右衛門」に似て、ハンサムな人だった。
▽アメリカ土産の古時計
 今回のハイライトは「浜口興右衛門」が幕末軍艦・咸臨丸で渡米し、アメリカ土産として持ち帰った柱時計と対面することだった。2階の本棚の前に黄色い布が掛けられて置いてあった。直径30センチぐらいの八角形の文字盤、天地約50センチの柱時計だが、振り子が普通の柱時計より5センチほど短い。

 この柱時計は、昭和50年代初めまで使われており、約120年間にわたり時を刻んだ。現役を退いたとはいっても、まだネジを回せば、「ボーン、ボーン」と時報の音が重厚に鳴り響き、まっすぐに立てれば「チクタクチクタク」と動くこを確認した。「おじいさんの古時計 もう動かない」ではない。「昭和33年に地元の時計屋で修理したが、また油を差すなど修理をすれば、まだ動く」と庸子さんや本間さんも言う。

 咸臨丸子孫の会は1994年設立以来、今年で10周年を迎え、総会は2月に第6回を開いた。総会のたびごとに会員に「咸臨丸乗組員のアメリカ土産や遺品があれば持参して、皆に披露してほしい」と呼びかけたが、これまで柱時計を持っているとの情報はなく、柱時計で現存しているのは、おそらくこれが唯一だと思われ、貴重なものである。また、この柱時計は

THE E. INGARAHAM COMPANY, BRISTOL, CONN.
という製造会社名と特許年月日として1855年9月1日と書いてあり、アメリカ製で、咸臨丸が1860年に持ち帰ったことは時期的に符合する。文字盤には長針、短針のほかに日付を示す赤い針と赤い算用数字が1から31まで外周にあり、これも珍しい。

 これまでの経緯は石巻日日新聞の夕刊に載った。見出しは「咸臨丸の子孫が来石 米国土産の柱時計と140余年目の対面」とある。
▽江戸ばばあとアメリカおんちゃん 
 南三陸の海の幸でのお寿司を昼食にご馳走になり、小竹浜へ移動。ここは「ふく」が阿部竹治(竹蔵ともいう)に嫁に行き、住んでいた新太郎屋(屋敷)があるところ。新太郎は「ふく」の長男で、その子孫は塩釜在住という。その隣の阿部哲さん(小竹浜小竹在住、69歳)の先祖は千石船の船頭をや区長をしており、その明子夫人が祖母から聞いたとする話はこうである。

 「ふくさんは江戸婆ばば、あるいはアメリカばばと呼ばれ、千石船が帰ってくると、着物に白足袋をはいてきりっとして毅然たる態度で浜に出迎えたという。また、次女ゆうはアメリカおんちゃんこと「浜口興右衛門」にかわいがられたというから、「浜口興右衛門」が何かのついでに石巻=浦賀を往来する千石船に乗って、何回か石巻を訪れたと考えられのではないか」―「浜口興右衛門」の妹と姪がここに住んでいたことの貴重な証言である。ゆうは慶応2年生まれで、「浜口興右衛門」の娘・浪と従姉妹で、明治2年生まれの浪と3歳しか違わない。ゆうさんは昭和24年に83歳で没。ちなみに、「浜口興右衛門」の一人娘で、いとこの浪は昭和25年4月17日、81歳で没。

 この後、榎本艦隊が停泊した折浜、開陽丸船上で亡くなった乗組員の中井初次郎(塩飽島出身の水主)の墓を桃浦の洞仙寺(八巻芳榮住職)に詣でた。この水主は咸臨丸とは関係ないが、働きすぎで慶応4年10月6日死亡、35歳、戒名は「賢孝院儀融良伝居士」。面白いのは死亡した年号が9月8日に明治元年に改元されているのに、まだ慶応4年のままになっていたが、あとで明治元年に訂正された跡があること。地元の人によると、江戸から東北までニュースが届くのに一ヶ月ぐらいはかかっていたからとのこと。

 石巻市の中心部に戻ると、サポーターとして参加したつもりの小杉さんが主役に躍り出る場面となる。北上川沿いにあるといわれた通り、祖母・木村節の生家である相馬藩の藩邸が見つかり、大喜び。この藩邸にはなまこ壁があり、威厳のあるたたずまいであった。
▽徳川将軍の侍医・太田道寿の子孫らしく医者が多い 
 石巻サンプラザホテルにチェックイン後、15分ほど歩いて北上川沿いの友福丸という料理屋で親類縁者との懇親会に臨む。集まったのは、橋本晶さんの妻庸子さん(79歳)、晶さんの弟彦二さん(85歳)、その妻文子さん(76歳)、晶さんの妹佐藤よし子さん(82歳)、その長男清寿さん(56歳)、次男純さん(54歳)、長女大石みち子さん(51歳)の親戚と、阿部和夫市教育長、それに本間英一さん、あと小杉、角井、私の12人。

 「浜口興右衛門」の先祖は太田道灌の弟・道寿で、彼が徳川将軍5代から9代までの侍医(御殿医)をしていた血筋を引いているためか、佐藤家は医師ばかりなのに驚く。よし子さんの夫・清佶さん(故人)が医師(昭和大医卒)を開業して、そのあとを長男清寿さん(聖マリアンナ医大卒)、次男純さん(金沢大医卒)、三男の文彦さん(独協医大卒)の三人の内科医で継いでいる。長女大石みち子さんのご主人も医師である。往診にも気軽に応じ、近所では大変はやっている佐藤医院といえばわかるという。

 ちなみに、私の長男も昭和大医卒の脳神経外科の専門医である。私の母の父・青木甲子三は東大医卒の海軍軍医大監で、日清・日露戦争で病院船の軍医長をしていたし、その父・青木芳斎も大阪の適塾で蘭学・医学を学び、町田市で回春堂という医院を開業、医者の長男(甲子三の兄)純造とともに種痘の普及に努めた。甲子三の長男・青木馨(私の母・芳枝の兄)も慈恵医大卒、練馬区で耳鼻咽喉科の青木医院を開業、今も長男・一郎(東大医卒、80歳)が同医院を継いでいる。

 よし子さんも私の姉・佐々木佳子と同い年で、頭の回転がよい点はよく似ていて、喜劇役者由利徹がすぐそば生まれで、たびたびお茶をのみにきていたという。懇親会でもわれわれに対して「お茶っこ飲みに、またいつでもいらっしゃい」と何度も言われた。
2004(平成16)年7月2日付
石巻日日新聞
【7月3日】
 9時過ぎ石巻発の仙石線快速で10時過ぎ仙台着。小杉さんゆかりの龍雲院を訪れ、『開国兵談』を著した林子平の墓、小杉さんの先祖に当たる伊達藩の隠密・鴉組(からすぐみ)の隊長・細谷十太夫とその三男・辰三(小杉雅之進の長男として小杉家の養子に入る)の墓に参る。

 この後、曹洞宗金剛宝山輪王寺のきれいな日本庭園をみてしばし旅の疲れを癒したあと、仙台駅近くで牛タンとテールスープの昼食をとり、小杉氏と別れる。午後は仙台市博物館へ姉と行き、「伊能忠敬の日本地図」特別展を見て、忠敬が描いた400枚もの地図が日本近代地図の基礎になっていることを知る。忠敬は1745年、千葉県九十九里町で生まれ、1818年没、その間1800年、56歳で最初の測量旅行に出発、17年間にわたり延べ10回の旅行で全国の沿岸などを徒歩で実測、69センチの歩幅で距離を計算した。全測量距離約39,000キロ、全測量日数3,754日。測量隊員が6−20人いたとはいえ、驚くべき努力と執念を感じる。

 ともかく、今回も新発見と大収穫で感激の連続の旅であった。
(2004年8月1日 佐々木寛 記)

ふるさとのかたりべ第64号
2004(平成16)年8月31日発行

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