04424TRIP

★ 咸臨丸子孫の会春の旅行★
静岡・清水訪問記

 咸臨丸子孫の会は2004年春の旅行を地元静岡在住の佐々倉洋桐太郎のご子孫による案内で4月24、25の両日おこなった。行き先は、1年も前から準備を重ねてきた静岡・清水である。清水港で咸臨丸が官軍に襲われ、死者を出し、その壮士の墓が清水にあるのをお参りするのが主目的。それとサクラエビを食べるのも、もう一つの狙いであった。

 参加者は、軍艦奉行木村摂津守の子孫2名、奉行従者・斉藤留蔵子孫2名、砲術方佐々倉桐太郎の子孫2名、運用方濱口興右衛門の子孫3名、測量方・小野友五郎の子孫2名、蒸気方手伝・小杉雅之進の子孫3名、開陽丸や咸臨丸など8隻の榎本艦隊を率いた榎本武揚の子孫1名、清水で襲撃されたときの咸臨丸副館長・春山弁蔵の子孫1名、、『怒涛逆巻くも』の著者、『桑港にて』の著者、『新選組一番隊 沖田総司』の著者、静岡の歴史研究家「黒澤氏」(静岡市埋蔵文化財センター館長)、幕末維新の歴史研究家2名の計22人。これまでの子孫の会旅行では最多の人数であった。

【4月24日】
 まず午前11時半、静岡鉄道「新清水駅」前のホテルサンルート清水に集合。昼食後、黒澤氏の「清水港と咸臨丸事件―維新前後の静岡を中心に」とのテーマで講演を聴いた。オーシャン・プリンセス号で清水港内を遊覧した後、次郎長生家(注1)、殉難者の墓地「壮士の墓」(注2)、次郎長の墓と幕末史料のある梅蔭寺(注3)、浦賀与力中島三郎助の法名・忠誠院木鶏日義居士のある妙慶寺、および次郎長の船宿を復元した「末廣」(注4)を見学した。この時点で聴講内容を検証しながらの見学が翌日まで続くとは気づかなかった。

【注1】
産湯の井戸や居間などはそのままに保存され、次郎長の遺品や写真がある。現在は土産屋になっている。主人の服部さんは次郎長の実兄の子孫で6代目。
【注2】
咸臨丸の戦死者の供養碑で、墓碑名は山岡鉄舟の書。
【注3】
次郎長ゆかりの寺。次郎長と妻お蝶のほか大政、小政などの名だたる子分たちが一緒に眠っている。境内にある資料館には山岡鉄舟から贈られた「精神満腹」など次郎長愛用の品々が展示されている。

 「末廣」から視近距離の料亭「なすび」で夕食の宴となった。日帰り参加者は最後の旅程になる。富士山を模った氷の山にサクラエビとシラス、マグロを乗せたお造り、サクラエビのかき揚げなどの料理で懇親会。かき揚げのあまりのおいしさに追加を所望する者も多かった。

 懇親会では、『怒涛逆巻くも』の著者から自己紹介、それを受けた関係者が所感を述べ、風論百出で盛り上がりを見せた。

【4月25日】
 二日目は清水から静岡へバスで移動、まず蓮永寺に行き、勝海舟の母信子と妹じゅん(順子)の墓、小杉雅之進の兄「直吉」(明治36年8月24日67歳没、泰嶺院殿松韻日響居士)の墓に参る。次いで、黒澤氏の詳しい歴史解説を聞かせて頂きながら、重要文化財で徳川ゆかりの浅間神社、徳川家康ゆかりの臨済寺にも寄り、静岡を後にした。

 再び清水へ戻り、山岡鉄舟ゆかりの鉄舟寺に行く。この寺は1500年前、久能山に久能寺として創立され、1575(天正)年に現在の場所に移されたが、明治になって廃寺となっていた。鉄舟が明治16年、48歳のとき、再興を発願、鉄舟は明治21年53歳で没したが、明治43年に鉄舟寺が完成した。鉄舟居士の墓もある。この寺の裏山に、すばらしい眺望のひらける展望台があるといわれて、250段の石段を苦労して登る。三保の松原、清水港、田子の浦から富士山まで見えて、すばらしい眺めだった。

 「清水魚市場 河岸の市」で各自好みの新鮮な魚の昼食を選んで食べ、サクラエビ、干物などのお土産を買う。

 昼食後、興津駅近くの清見寺と坐漁荘を訪ねる。清見寺には「咸臨丸乗組員殉難者の碑」がある。この石碑の表には榎本武揚書による「食人之食者死人之事」(人の食を食む者は人の事に死す)という文字が書かれている。参加した武揚の子孫も感慨深げだった。

 この碑の裏には、明治19年3月に元老院議官大鳥圭介が書いた「骨枯松秀」とのタイトルで、咸臨丸が清水港で襲撃された経緯が書かれている。要約すると、慶応4年8月徳川幕府所属の開陽、回天、咸臨、蟠竜、千代田、長鯨、美加保、神速の8隻が品川湾を出発、仙台に向けて航行中、房総沖で台風に遭い、各艦離散した。咸臨丸は三本マストのうち最も大きいマストを切り倒し、漂流を続け、9月2日清水港に着いた。明治元年9月18日、官軍の富士山丸、飛竜丸、武蔵丸の3艦が襲撃、副艦長春山弁像、士官長谷川得蔵、准士官長谷川清四郎、春山鉱平、加藤常次郎、今井幾之助および水兵若干が殺された。これらの死体を放置しておけぬと山本長五郎、通称清水次郎長が手厚く葬り、壮士の墓を建て、清見寺に碑を建てたとある。

 この寺を後にして、明治の元老・西園寺公望公の別邸「坐漁荘」を見学。この別荘は大正8年に公望が建てたもので、現在は明治村に移築されているが、静岡市が歴史的文化財として忠実に復元した。あたかも訪問した日は復元が完成して一般公開の初日であった。最後の元老・公望は後継内閣の人選について天皇の諮問に強力な発言権を持っていたため、実際の坐漁荘は「興津詣で」と称されたとおり、訪れる政府要人が後を絶たなかったという。

 ともかく、サクラエビを食べ、咸臨丸、清水次郎長、山岡鉄舟などのゆかりの地を訪ねることができ、印象深い旅であった。
(2004年8月9日 佐々木寛 記)