ACTIVITY REPORT

大収穫と新発見の
江差・函館旅行

<開陽丸リニューアルオープン式典参列目的の旅行>

2003年4月4日〜6日

咸臨丸子孫の会
幹事教授方頭取
佐々木 寛

〔2003年4月4日〕

18時15分、小杉さんと上野駅13番線で合流、構内レストランで夕食の後、19時3分「上野発の夜行列車」北斗星3号の2人個室で出発。

 午後8時からこの線にしかない食堂車に行き、長い夜をソーセージやチーズを肴に日本酒やウィスキーで旅の安全を祈って乾杯。11時前に就寝。大宮、宇都宮などに停車、仙台から函館まではノンストップ(午前1時50分、盛岡に運転停車)、函館に午前6時35分着。


〔2003年4月5日〕
 函館駅でうどんで朝食をとり、江差線に乗り換え、午前9時30分約二時間で江差着。峠の林にはまだ雪がたくさん残っており、雪景色を楽しむ。 江差駅には輪島絹子開陽丸友の会副会長(以下 絹ちゃん)のご主人が車で出迎えてくれ、その足で9時40分、町役場を訪問、新木総務課長、濱谷一治町長に名刺を置いてくる。

 絹ちゃんは接待係ですでに開陽丸青少年センターでコーヒーの準備中。新装なった開陽丸をみたり、カノン砲の写真を撮ったりしているうちに、コーヒーが出来、3杯もご馳走になる。

 
そのうち青少年センター理事長の濱谷町長や開陽丸友の会の石橋会長、山田副会長も来て、長旅の労をねぎらわれる。

〔開陽丸リニューアルオープン記念式典〕
 そうこうするうちに午前11時から「開陽丸リニューアルオープン」記念式典が始まる。好天に恵まれ、気温は12℃ぐらいで、コートもいらない。

 
4月に就任したばかりの濱野瑠恵子常務理事・館長の司会で、濱谷理事長(町長)の式辞、伊藤満 檜山支庁長、三田村 光信町議会議長のお祝いのことばの後、祝電披露では改修費用(1億3600万円)の大きい部分を出資した日本財団の曽野綾子理事長のあと、二番目にちゃこさまが送ってくれた「咸臨丸子孫の会様」の電文が披露された。立派に本会の名が読み上げられ、感激。

 ちなみに、現在の開陽丸は平成2年4月に復元、長さ72.8b、幅13b、メーンマストの高さ45b、当初の工事費は13億5000万円、リニューアル費用は1億3600万円で、日本財団のほか北海道、江差町が補助をした。

 船体はコンクリート造りの建造物で、地元業者が工事を担当、マスト3本、ロープなどは横須賀の住友重機械工業(元浦賀ドック、今年3月末で閉鎖)が造って、海路運んだ。

 
新木総務課長が工事経過報告の後、あいさつをした人と澤野信彦住友重機北海道支社長などがテープカットをし、参加者役100人が艦内を見学した。

 
北海道新聞、NHKもテレビ取材し、夕方のテレビ「道新ニュース」で20秒間放映された。翌日の道新にも記事が載る。午後は無料開放され、約400人が見学に訪れた。


〔松前城〕
 われわれ(小杉伸一、佐々木寛)は石橋会長、輪島副会長夫妻とともに半年前と同じ「江差屋」で昼食をご馳走になり、午後から「夜明けの塔」など海岸沿いに輪島ご夫妻の車でドライブ、北海道最南端の松前城を見学する。江差から松前までは約42`。

 
松前福山城は明治元年、二年の戊辰戦争の一端、箱館戦争の舞台に江差、箱館とともになったところで、明治元年11月15日、土方歳三指揮の徳川脱走軍700人によって攻略されたことがある。

 小杉雅三著『麦叢録』は「この役で我が兵の費やした弾薬は35,000発に及び・・・」と記している。また、有名な「松前漬け」はこの松前郡松前町からでたもので、昆布や数の子を漬けたもの。このオリジナルをスーパーで土産に買ってきたが、本場のものにはニンジンは入っておらず、数の子がたくさん入っていた。


〔懇親会〕
 この日の夜は江差に戻り、檜山荘で「開陽丸友の会」の石橋会長、輪島、山田両副会長、笹原事務局長とわれわれ「咸臨丸子孫の会」との6人でささやかな懇親会となった。昨年10月と同じように食べきれないほどの海の幸、絹ちゃん差し入れのビール1ダース、酒、焼酎で6時半から10時まで話は尽きない。

 この話し合いで、今年7月12日の久里浜でのペリー祭に5〜6人が来横すること、また10月4日の東軍(幕府軍)戦没者慰霊祭に小杉雅之進江差奉行並の曾孫・小杉伸一氏が出席し、祭文を読むことになり、われわれもでき得る限り旧幕臣として応援のため出席することを申し合わせた。すでに檜山荘に10人の仮予約を入れた。


〔2003年4月6日〕
 絹ちゃん車が午前9時10分、檜山荘に迎えにきてくれ、木古内回りで函館へ。今回もまた10時ごろから車内は小料理屋のようになり、例のジャガイモ ( キタアカリ、これはメークイーンより甘い )とバター、ご主人が川で釣ったヤマメ、山で摘んできた山菜で、小宴会。


〔咸臨丸終焉の地〕
 今回は中山峠越えでなく、木古内回りとしたのは、咸臨丸終焉の地泉沢沖を確認するためだ。これは前日、函館から江差へ向かう列車から泉沢の手前で咸臨丸の立て看板をちらっと二人で見かけたからだ。特に絹ちゃんに頼んで、そうしてもらったものだ。

 
海沿いの道路を走り、木古内の次(さつかり)の次の駅、泉沢を函館へ向け少し行った所、線路より海側の道路脇に「あった、あった」と歓声をあげた。もちろん「咸臨丸終焉の立て看板」だ。

泉沢  咸臨丸の 碑の下に  春の息吹か  ふきのとう 咲く   英寛

この看板を頼りに海辺に向かって60メートルほど歩く。小高い丘から見下ろすと、海岸線に沿って防波堤があり、その沖には岩礁が二筋ほど岸辺と平行に見え隠れする。おそらくそのあたりの暗礁に乗り上げたのではないかと推測された。


 これまではっきりしなかった咸臨丸の最期の地が泉沢沖であることが、これで確認された。一心不乱になって、ワイドで写真を何枚も撮る。前回もここを列車で通ったが、だれも確認できず、今回の旅行での大きな収穫となった。車の人になって、みんなで新発見を祝って缶ビールで乾杯!!

〔市立函館博物館五稜郭分館で小杉雅之進の絵発見〕
 「咸臨丸終焉の地」を後に、函館の五稜郭に向かう。前回の旅で五稜郭タワーのあと四稜郭に行くため、五稜郭分館に行く時間がなく、次回を期したが、図らずもまた絹ちゃんの案内でこの分館を訪ねることができた。

 
100円の入館料で、分館に入ると、すぐ右になんと小杉雅之進が描いた五稜郭戦争の絵が何枚も陳列してあるではないか。小杉さんが「あっ! これはなんだ」と声を上げ、すぐ受付の人を呼んだ。幸運にも、その人が学芸員の佐藤という人だった。私たちが「われわれは咸臨丸子孫の会の教授方、教授方頭取で、江差の開陽丸リニューアルオープンの記念式典にやってきた」と言い、小杉さんは「ひいおじいちゃんがこの絵を描いた。オリジナルは東京農大に寄付してあるのに、どうしてここにあるのか」と詰問した。佐藤学芸委員は「市立函館博物館蔵で、、、」とかなんとか理由を話したが、どうしても腑に落ちないところがある。これからの調査に待たねばならない。

 
しかし、同学芸員は「こうして子孫の方に会えて、交流の輪が広がることがうれしい」と言い、われわれに展示物の図録『五稜郭   箱館戦争』(常設展示)と平成14年度  特別展『箱館戦争――激動の時代と無名の志士たち』の2冊などを贈呈してくれた。7月12日のペリー祭にも横須賀を訪問するとかで、また今後とも連絡を密にすることになった。

 
ともかく、今回の旅行は咸臨丸終焉の地の確認、小杉雅之進の絵が五稜郭分館にあったこと――の大きな収穫と大発見と新しい人の輪の広がりが大きくなったという点で、本当に有意義なことの多い旅であった。

 15時5分函館空港発JAL546便ボーイング777で羽田16時25分着、帰京。

以上